お昼休憩、だけど

 ……午前は、つらかった。

 きつかった。


 朝の九時から正午まで歩きっぱなしでは、僕だって少し脚の痛みや疲労を感じる。

 それなのに。――人間の身体よりずっと、歩くのが大変なはずの人犬の身体では、どれだけこの歩かなければならない距離が、時間が、途方もないものに――感じるのだろうか。




 ……お昼は、ちょっと休憩だ。



 芝生広場にちょこんと置かれたベンチにたどりつくと、僕が座るよりも前に、南美川さんは全身の力を抜いてぐしゃりと伏せた。変なたとえだけど、崖から突き落とされたときと匹敵するくらい、いまの南美川さんには重力が働いていそうだった。……それほど、疲れているということだ。


 地面に生えた雑草にへばりついて、動こうとしない。

 まるで接着剤でくっつけられてしまったかのようだ。



「南美川さん。だいじょうぶ?」



 返事はない。

 ただ、かすかな唸り声が聞こえてくるのみだ。……喉の奥で、嗚咽にも似た音を長引かせてかすかに発声している。




 ……もう、どうしようもないのかもしれないけど。

 このひとにとって。いま、そうするしかないくらい、この状況はどうしようもないんだろうけど。


 ……僕は、このひとに、そんな犬らしい振る舞いをしてほしくない。

 しかも、足元で、そんな地面に這いつくばって。

 見下げるのではない。僕は、このひとをずっと、見上げていたんだ。それなのに――だなんて思ってしまうのは、きっと、単に僕のわがままなのだろう。

 それこそ、ほんとうに、どうしようもない。……唾棄したくなるほどの、僕の身勝手なのだろう。




 わかっている。ああ。――わかっては、いるつもりさ。




「……南美川さん。そうしてないで……とりあえず、ごはん食べよう。お昼ごはん」

「……やだ……つらい……もう、つらいよお……」




 気がついたら、しくしくと泣き出している。ああ。――また、このパターンだ。

 慰めなくてはいけない。労わらなければいけない。わかっているのに……こんなことを繰り返すたび、僕は僕のなけなしのなにかだいじなものを、擦り減らせていくような気持ちに、なる。



「ごはんは歩くこととは違うだろ」

「だって、こんな、……痛くて、……つらくて、……気持ち悪いのよお、入らない、ごはんなんか、食べたくない、歩きたくない……」



 僕は、そっとため息をついた。

 そしてその流れで屈み込むと、ひょいと――南美川さんの身体を、持ち上げた。

 よいしょと膝の上に乗せる。



 南美川さんは大層驚いた顔でこちらを見ていた。

 目をぱちくりとさせ、三角の耳をぴょこんと立てている。

 ……思わず、小さな笑みをこぼしてしまう。



「……そんなに、驚かなくってもさ」

「だって……いきなりだったから……」

「あなたの身体くらいなら僕は持ち上げられる」



 そう言うと、南美川さんは、ちょっとうつむいた――ああ、ちょっと、……いまのは失言だっただろうか。

 このひとは、自分の身体が軽い、いや、軽すぎることにあきらかになにか絶望感に近いものをもっている――わかっている、わかってはいるのだけれど、……僕は、また。



 仕切り直すために、くしゃりと後頭部に手を当てた。……そういえば、いくら伸ばしているといったって、いくらなんでも、僕もずいぶん髪が伸びすぎだな。切りに行く……しかし。ここからまだ、南美川さんの散歩が続く日々。それに、そうでなくとも、……南美川さんといっしょに過ごせるのは、僕だけだ。すくなくとも南美川幸奈という人間といっしょにいられるのは、いまだに信じがたいことに、それでも、……いま世界で僕だけなんだ。

 だから。髪を切りに行っている暇なんて、ない。……自分で切ったりって可能なのだろうか。したことが、ない。ちょっと、怖いけど……でもとにかく、髪を切りに外出することなんかできない以上は、我慢できなくなったらいずれは自分で切らなければならない。……当たり前だけど、南美川さんはいまハサミなんか使えないし、人間の道具のたいがいは使うことができない。……それは、とんでもなく不便なことなんだって、教えてくれたのも――南美川さんとのここまでの生活だった。




 ああ。明るく。……振る舞わないと。

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