社会人のかた
……そんな光景から。
ふっと目を逸らそうとしたが、今度は別の視線に気がついた。
……あの若い男性職員が、バツの悪そうな顔でこっちを見ていたのだ。
微笑みさえして、まるでどこか照れたかのように。
親しい相手に甘い言い訳をするかのように――そんな馬鹿な。
「こんにちはっ。社会人のかた、ですよね?」
ベージュの帽子を脱いで挨拶までしてくるから、僕はびくっと肩を震わせた。
うつむきかけて、でもそれではいけないと思う。……必死の努力でどうにか、こんにちは、と視線を下げずに返した。
そのまま立ち去ろうとしたが……ニコニコしながら、彼は僕に話しかけてきた。
「今日もあったかいですねえ。ワンちゃん連れてお散歩ですか?」
「……えっ、は、はあ、……はい、そうですけど……」
「そうなんですね。お仕事は平日お休みの形態で?」
……なんの、時間なんだ。こんな会話。
ひとと、しかも関係ない他者と、こんな他愛ない話をさせられるだなんて。
僕は、なんでいったい、……こんな苦行をさせられているんだ。
「……長期休暇中です……」
「ああ、それはいいですね! 休暇は社会人の権利ですから。しかし長期休暇を取れるほど、社会に貢献しているとは、すばらしいですね。……ご職業はなにを?」
「いちおう、その、……Necoプログラマーの端くれで……」
「おお、なんと、Necoプログラマー! いいですね、社会になくてはならない、必要なお仕事ですねえ。社会評価ポイントの、適切に割り振られるべき仕事です」
ぴしっ、と彼は敬礼までした。
はは、と、……僕は曖昧に笑って、その場を立ち去ろうとしたのだけど。
パンパン、と――前にいた管理者らしき女性が手を叩いた。おそらくは、わざと響きわたるように。
「はい! せっかくですので。みなさん注目!」
体操をさせられていた気力のない人間たちは、だらりと両手を提げ、どろりとした視線で前を向く。
若い男性は敬礼をやめ、どこか満足そうな顔で、腕を組んだ。
なにごとだ。いや。……ほんとに、冗談ではない、……なにごとだよ。
「社会人のかたにごあいさつっ」
今度は、彼らが一斉に僕のほうを向いた。……え?
女性は拳を突き上げてニンマリとして高らかに述べた。
合図のように。勝鬨のように――。
「社会人のかた、こんにちは!」
社会人のかた、こんにちは――と、人権制限者たちが声を揃えて繰り返した。
声を、張り上げて。……その一致した響きは、どこかもの哀しく響く。
まるで、小学校や、……幼稚園のように。
大人なのに。すくなくとも。……僕よりあきらかに年下の人間などここにはひとりもいなさそうだというのに。
いや、わかってる。僕だって。わかっているさ。――つまりそれが、人権制限者の人権制限者である所以、ってわけだろう?
「はーい、よくできました。……おほほ、すみませんねえ、社会人のかた。制限者たちをいつもここで訓練してますの。騒々しいったらありゃしないでございましょお?」
「いえ、僕は、べつに、そういうのは、あまり、気にしないんで……」
「まあっ、なんてお優しいのお、おほほほほ。――やはり社会にまっとうに貢献されてるかたは違うわねえ?」
……たぶんこの女性だって、人権制限者の管理者という立派な社会人なのに。
だから、このセリフ、たぶん、……僕ではなくてこのひとたちに聞かせている。
若い男性職員が、つけ加えるように言う。
「長期休暇が取れるくらいですからねえ。しかもまだお若いのに」
この若い男性だって、……まだ、若いのに。
パンパン、と中年女性はふたたび手を叩いた。
「みんなも立派な社会人になれるよう、戻れるよう、がんばるように!」
はーい、と声を揃えたその響きも。たしかに幼稚園児みたいに元気いっぱいではあったけど――心底元気があるわけじゃなくって、声を張り上げないと、……たぶんこのひとたちは酷い目に遭うんだ、そう――そこにごく当たり前のように脚を鎖でつながれた人間が、いるのだから。
このひとたちにとってみれば、おなじ立場の人間が――。
「はい。社会人のかた。ありがとうございましたっ!」
……ふたたび、揃った、丁寧で元気すぎるあまりにも不自然なお礼の言葉。
若い男性職員は、やっぱり微笑んでいる。まるで、すごいことを、いいことをしましたでしょう自分、とでもいうかのように。ああ。……反吐が出そうだ。
僕は頭を下げた。どうも、だなんて、……ほんとは言う義理も、ないんだけど。
……背中を見せてうなだれた南美川さんはすっかり震えてしまっている。
怒鳴り声も、つなぐことも、馬鹿にすることもなにもかも――このひとには、キツすぎるはずだ。
たとえ自分に直接的にこなくても。そういうことが、目の前であるというだけで。
「……行こうか」
僕は、声をかけた。
すると、その瞬間――南美川さんは、粗相をしてしまった。
あまりにもあっけなく、あまりにも一瞬のことだった。
そのまま。顔を上げようとはしない。ただただ震えて、硬直している。
……土に、このひとの漏らした液体が染み込んでいく。
僕は、虚ろに見ていた。
もう人間とはみなされないこのひとの、ごく自然なこととしての粗相が、目の前で繰り広げられている。――南美川幸奈が。
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