苦難のときと、きれいな夕暮れ

 散歩によるトレーニングがはじまる初日である今朝。

 そう、今朝、家を出るとき、僕は南美川さんに約束した。

 いい子にして歩行ノルマを達成できたら、ご褒美をあげる――と。


 南美川さんは顔を真っ赤にさせてもじもじしていた。

 なんでもいいんだよと僕は視線を合わせて南美川さんにそう言った。

 すると、小さな声で南美川さんは言った。

 ケーキが食べたいの、と。



『真っ赤でおいしいいちごの乗った……ショートケーキが、食べたいの』



 いい? と、僕を見上げてきた。

 そんな顔すら、どこか不安そうで。自分を恥じていて。

 もちろん、いいよ――と、僕は答えた。だから、つとめて明るく言ったつもりだったけど、……僕のそんな演技は、あるいは南美川さんには空々しく見えていたのかもしれない。



 帰り道にはケーキ屋に寄ろう。

 南美川さんと違って僕にはケーキのブランドとかはわからないけど。

 南美川さんが望むものなら、なんでも。

 なんでもだ。

 ケーキくらいのレベルであれば、金に糸目はつけない。……どうせ南美川さんには、食事制限もあってたくさん食べれやしないのだ。どうせひと切れしか食べれないのなら――お金がどれだけかかってでも、うんとおいしいものを買おう。




 ……それくらいのことしか、できない。僕には。

 昼下がりという時間帯も過ぎゆき、夕暮れの気配がひたひたと近づいている、広い広い首都の公園で。

 僕でさえ、脚が痛んでくる時分。

 もう、荒い呼吸を隠すこともなく――ハア、ハアハア、と大層苦しそうに息をしながら、それでも歩みを続ける南美川さんを、……荷物をく家畜のように痛々しく歩みを続ける南美川さんを、僕は、そんなちゃちな子どもだましみたいなことでしか、……いたわることができないのだ。




「……南美川さん……まだ、歩ける?」

「だって、歩か、ないと」



 ゼエハア、とかわいらしくもないかすれきった喘ぎ声で――南美川さんは、答える。



「……そう、しないと、わたし、シュン、が、シュンに、」

「ああ、ごめん、しゃべらなくて、いいよ、南美川さん……今日はあと千歩……くらいだ、がんばって……」


 腕につけた歩数ウォッチは本日のノルマが残り千百歩であることを示している。……その百歩をごまかして言うことくらいしか、臆病な僕には、できなかった。


「……せん、ぽ……」



 その顔が絶望の色に染まった。それも、そのはずだ。――時間が経てば経つほど当然ながらペースは落ちて、この一時間でやっと五百歩ほどだ。千歩というと、このペースだと、たぶんまだ、……三時間くらいかかるかもしれない。

 休ませたい。少しくらい、休ませたっていいんじゃないのか。でも、ネネさんは、というよりは高柱第二研究所は、休憩のタイミングさえ具体的に指示してきた――。



「でもあと百歩を歩ききれば十分間休憩ができるよ……」

「……そんなに、まだ、あるの……なんで……どうして……」



 ハア、ハア、と歩みを進めていく。

 もう、虫の息同然だ。

 まるで重たい重たい見えない荷物をくびきで曳かされているかのように、短い四肢でのその歩みは鈍く、ごくわずかだ――。




 そしてその鎖を曳いているのは、やっぱりまぎれもなく、僕だ。




「がんばって、南美川さん、……がんばって……」




 そろそろ雑木林のエリアが終わる。

 向こうから、若くて未来のありそうな、こじゃれた男女が歩いてきた。

 ふたりは腕を組んでいて、そして南美川さんに――金の毛並みの人犬に人間相手のようにしゃべりかける僕を見て、笑った。

 あざけっていた。……犬としゃべってるねあの男のひと、という女性の声も、はっきりとしっかりと聞こえた。まだ若いのになあ、ヒューマン・アニマルと仲よしか、かわいそうだなあ、社会性どうなってんだろな、とかいう男の声も、耳に届いた。




 南美川さんがうつむいた――いま、傷ついたのは、どちらかといえば僕のほうではない。

 南美川さんだ。……うつむくだけでリリンと過剰になる首輪が、ますますこのひとの心を尊厳を苛んでいく。それなのに、僕は、……その首輪をリードで引っ張ることしかできないだなんて。なんで。どうして。――雑木林を抜けた先の夕暮れの空は鮮やかで自然な紅色で、やっぱりあんなにもきれいなのに。

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