気遣い

 川は、それでも流れ続ける。



 深いため息をついて、南美川さんのリードをふわりと円を描くようにして持ち上げた。それだけで、リリンと首輪につけた金色の鈴が鳴る。

 僕が歩き出すと、南美川さんもそれに従って、とてとてと歩き出す。白い素肌の背中。一歩一歩前に進むだけで、大袈裟なほど鈴が鳴る。

 ちゃんとついてこれてるかと見下ろすと、南美川さんは、脚は止めずに恥ずかしそうに僕を見上げていた。……自身が移動するたびに鳴り続ける鈴が、どうにも、恥ずかしいらしい。ちょっと非難がましい視線も、そこに交じっている。

 ……僕はいたたまれなくなって目を逸らした。


 僕だって。こんなこと、したくないけど、外でヒューマン・アニマルを連れるときには鈴やベルをつけなければならないのだから、しょうがない。

 ……ヒューマン・アニマルにはとくに脱走の危険がある。たとえ万にひとつのチャンスを手に入れて、決死の覚悟で逃げて駆け出したとしても、耳障りなほど鳴る首の拘束具の音ですぐに捕まえられてしまう。……脱走をしようとしたヒューマン・アニマルのその後なんて、南美川さんに出会ったいまでは、もう想像もしたくない。



 橋を渡って、林のエリアに来た。朝方にも歩いたところに戻ってきたというわけだ。午前から昼間にかけてこの広い公園をぐるりと一周してきて、歩き続けたというわけだ。

 散歩をするには良いエリアだろう。……それが僕たちみたいな事情でなければ。


 見上げれば木漏れ日が注ぎ込んでいる。林のエリアは昼間だというのに妙に暗くて、なんだか神秘的だ。

 川のエリアとはがらりと雰囲気が変わって、緑と土。たくさんの木々は重なり合って、調和感のバランスが良い。

 そして緑林地帯用にカスタマイズされたのであろう機械鳥の鳴き声。川では、チチチ、と小鳥めいたつくりだった。ここでは、クワッ、クワッ、と……なんの種類の鳥がモデルなのかはわからないが深い鳴き声を響きわたらせている。たまに頭上でバサバサとプラスチックの羽をはばたかせて飛んでいった。


 良いところだけど、南美川さんの肉球にはさぞかし泥がつくはずだ。

 南美川さん――と呼びかけようとして、やめる。……少数とはいえここには人通りがある。さっきの橋の欄干みたいに周囲にだれもいないというわけでは、ないから。

 ……犬と人が会話をするのは、この社会では、倒錯的だから。



 リリン、リリン……と、涼やかな鈴の音が爽やかな林に響き続ける。南美川さんの大きな動きも小さな動きもすべて余すことなく音に変えて、僕に、全世界に、発信し続ける。……もちろん、強制的に。



 僕は南美川さんに語りかける代わりに道の端でしゃがみ込んで、南美川さんの肉球を手に取った。

 ……小さな肉球のさらに小さなピンク色の柔らかい部分は、すでに泥で薄汚れている。


 橋からここまでの移動でもおそらくその小さな身体ではすでにキツいのだろう。

 南美川さんはハアハアと荒く呼吸をしながら。

 きれいに微笑んで、でもどこか切なそうにぼんやりした目で僕を見ていた。熱っぽい……風邪を引いたときにもどこか似た顔。



 その顔を見てると、やっぱりいたたまれなくなって――。



「脚、汚れちゃったね」

「いいの……いいのよ……」



 ハア、と口を開けて息を吐き出した。……外ではその舌の真っ赤な色をより鮮やかに見ることができる。



「……人間の、手なら、泥、つらいと思うけど、砂、痛いと思うけど」

「……うん」

「い、いぬの、……犬の手ってね、よくできてるのよ、こんなにね、いろいろ、なんでも、……汚いものついても、ちっとも、いた、……痛くないのよ、地面を、這うように、つくられてるのよ、地面、這っても、痛くないのよ、どうぶ、動物のね、脚だからね、ちゃ、ちゃんとね、……どこでだって這いつくばれるようになってるの、そう、……そう教わったから、えへ、ね、……ねえ、……すごいでしょう……」



 苦しい呼吸のなかで、途切れ途切れにでも、そう言ってくれる南美川さん。

 そんなことを言ってまで、僕のほうを気遣ってくれる南美川さん。


 僕は、無言で顔をしかめた。

 ふがいないけどそうするしかなかったのだ。

 ……あなたをそんな目に遭わせているのは、あなたを人間に戻したいという僕のエゴでしかないのに。



「……それじゃあ、行こうか」



 僕は、二本足で立ち上がる。南美川さんは、四つん這いの短い四肢を再び地面に食い込ませて、前をぐっと向いて歩きはじめる準備をする。

 相変わらず僕は、このひとと真正面から対等に話すことさえできない。

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