お姫さま抱っこ

 一日目。歩行ノルマは、どうにかこなせた。



 終わったときにはもうほとんど夕方は終わっていた。ノルマ達成の小さな機械音がピッと鳴った。

 もう本日四周めの、「池の広場」と題されたエリアでのことだった。小さな池があり、生き物がいて、全体的に湿っている。


 南美川さんは崩れ落ちるようにべしゃりとうつぶせになった。そこはねちゃねちゃした泥の上だった。そんなところにお腹をくっつけては大層汚れてしまうだろうに、南美川さんはそんなことにはもう気を配れないのだろう、真っ赤な顔にただ虚ろな顔をして荒く呼吸をしているだけだった。

 僕は立って、南美川さんのリードを掴んだまま。紅色の最後の余韻が、公園の緑を越えて、オールディな高層ビル群の向こうに消えていくのを、見ていた。


 ここは昼間にいた橋にも近いけど。

 欄干から見た人権制限者の体操はもう行われていない。人権制限者は基本的には夜間の外出ができない。幼い子どもの同等の人権とみなされているからだ。なので全国の人体制限者はいまごろ例外なく、施設や自宅に戻っているはずだ。

 同じ人権制限者でも、標準的に中卒以上の未成人者みせいじんしゃや、それと同等の人権をもつ者は、このあと夜の八時までは外出が許される。相対偏差が高ければ単独での行動も許される場合がある――高校時代の南美川さんや峰岸くんたちのように。


 とはいえ、基本的には。

 ここからは、社会人だけの時間。成人して、社会人と認められた人間のみが、自由な外出を許される。

 夜の街で堂々と振る舞うことができるのはこの社会において社会人であると認められているメンバーのみだ。成人手続きを成功させることによって社会から成人だと認められ、仕事や慈善活動といったかたちで社会に奉仕を続け、社会評価ポイントというかたちで有用な社会人であることを証明し続け、社会の一員として立派に成り立っている。そういった人間だけが、夜の街で出歩いたり酒を飲んだり談笑したりエンターテインメント施設で楽しんだり、そういうことを許されるのだ。

 ……僕は、許されていたって、そういうことをやる気もないし、たとえばそういうことをいっしょにやる相手だって、この世にひとりもいないんだけど。


 当然のことだが、ヒューマン・アニマルには外出制限はない。なにしろ自由というものがまったく存在しないため、制限する以前の問題なのだ。制限するべき自由がそもそも存在しない。人権が、そもそも存在しない。人間ではないから。動物だから。動物にだって外出制限はなしえないだろう? そもそも、自由な外出なんてまったくかなわないのだから。

 家の中でも外でも、どこかに行くならそれはかならず所有物として人間に伴われてのことだし、人間に連れられれば行きたくないと抵抗することもできない。首輪が引っ張られればそのぶんだけ前に進む――そうしなければいけないのが、動物で、ヒューマン・アニマルだから。




 ドロドロの沼をまるで極上のお布団だとでも言わんばかりに、その上ですっかりぐったりとしてしまった南美川さん。

 その身体をよいしょと抱き上げて、僕は歩きはじめた。


 公園の出口に向かう。タクシーを拾うのだ。

 南美川さんとは比べることすらできないだろうけど、僕もまあまあ脚は痛い。鈍く痛んでいる。筋肉痛もひどそうだ。普段、運動をしないからな――そう思うとなんだか、自分で自分を嘲笑したくなった。……ここ最近は、変なことだらけだ。普段ぜったいしないことを、いったいいくつやってきたのだろう。



 南美川さんがとろんとした目で僕を見上げている。



「……やだ、わたし……重たいでしょう……?」



 一般的には女性のそういう質問というのは、重たくない、と答えるのが常識らしいとオープンネットで調べた知識がある。けど、南美川さんの場合は、……たぶん望むことは、逆なんだろうって、やっぱり思う。

 だって、ヒューマン・アニマルとなってしまったこのひとの身体は、あまりにも、あっけないほど――軽い。そして、そのひとはそのことを、……自覚できないひとではない、から。そのうえでそういうことを投げかけてしまうのが――ああ、あなたはどこまでも、南美川幸奈だ。



 ……だから、答えの代わりに、僕は南美川さんの身体をよいしょともういちど抱えなおした。……人間のときのままのつるつるしたお尻が、慣れていても、やっぱり僕のごつごつした手には、毒だ。



 なにかを感じ取ってくれたのか、南美川さんは小さく笑った。相変わらず整わない呼吸のなか、汗やらなんやらでぐちゃぐちゃの顔、そんななかでただふっと息を吐いて安堵するかのように、笑ったのだ。





「……ねえ、シュン? 変なこと、訊いていい?」

「なんなりとどうぞ」

「これって、お姫さま抱っこね……」




 南美川さんがもっとはにかんで笑ったから、僕もちょっと笑った。

 でもすぐに恥ずかしくなって、前を見据えた。アーチ型の立派な門。公園の入り口であり、出口。



「……あの、ごめんね、わたし、変なこと言ったわね……」

「いいんだよ。その……間違いってわけじゃないし」



 ……お姫さま、か。

 うん、そうだね、あの立派なクラスメイトの峰岸くんにとっては、そうなんだろうってずっと思っていたけれど。

 ……まさかね、僕が南美川さんのことを、そんなふうに抱き上げて。

 南美川さん本人から、そんなことを言われる日が来ようとは、ね。



「南美川さんもそういうお姫さま願望とかあったんだね。女の子にはよくありがちだっていうのは聞くけど」



 あまりにも、いたたまれなくて。

 だから、あくまでもからかうつもりだった。あくまで気安く、気軽な冗談として。



「あるわよ。だって、わたし……女の子だもん」



 くるり、と柴犬の尻尾が丸まっている。

 もっと、いたたまれなくなった――だから僕はなにがあろうと天変地異があろうとぜったいにこのひとを落としてしまわないように、抱える腕にもっと力を込めた。

 門を出ればすぐにタクシーを拾う。そしてすぐに、高柱第二研究所に行って……今日のことを、報告する。

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