勝手な意思

 体力をつくるのに必要なことはまず外で長時間の散歩をすることだ。

 それが最適だとネネさんは言う。すくなくとも、ヒューマン・アニマルの身体、立場では。

 ……普段運動の習慣がないとはいえ、人間の立場である僕はともかく。南美川さんのいまの身体では……四つ足でそんなに歩くのは大層大変なはずなんだ。なにせ普段数十分散歩に出るだけで、すぐ息を切らしている。人犬の身体というのは……思った以上に、歩行さえも大変らしい。四つん這いで、首を反らして、必死に前を見て、ぜえはあ呼吸をしながら四本の短い脚でとてとてと人間の二足歩行についていく――。



 ……大変な、ことだ。やはり。ほんとうに。

 実際、南美川さんはこっちを見上げて泣きそうな顔さえしていた――。



 ネネさんは言葉数少なく、でもはっきりとした説明を続ける。

 そもそもまず僕と南美川さんが毎日散歩をするという習慣すらつくれないのならば、オリビタの投与は危険すぎて、なしえない、と。

 成功の鍵を握るのはけっきょくのところ僕と南美川さんの関係性だ。信頼関係だ。だからふたりで決めた習慣を守る、というのは――ネネさんたち研究者がわからすると、とても必要な要素であるらしい。



『わかってると思うけどね、幸奈だけの問題じゃないよ。当たり前だけど。春。アンタのことも、試すんだ』



 つまり、……情にほだされて、南美川さんに甘くして。

 結果的に南美川さんが拒否したならば、その場でやめてしまわないか――どうか。

 オリビタは、……継続的な服用が必要だ。



 だから。

 たとえ南美川さんが嫌がっても、散歩はしなければならない。

 そのことが、結果的にオリビタの投与に耐える力をつける――のみならず、……経口投与のときにそのひとに従う精神もつく、とのことだった。



 南美川さんとそっと顔を見合わせた。……あなたがお散歩が大嫌いなことは、知っている。けれど。だけれど――。

 しなければならないというのか。




 そもそも、……そもそもだ。




『……それしか、ないんですか?』



 尋ねた僕の声はやけにぽつりとしていた。



『南美川さんを人間に戻す方法って、そんなのしか、ないんですか……?』


 準備段階で散歩をしなければならないとか。

 投与中は、ヒューマン・アニマルの本能を利用して、人間扱いしないとか。

 痛みに耐えるとか。


 ……もうちょっと、うまい方法もあるんじゃないのか。

 どうして、提示された方法はこれだけなんだ。

 ……ほんとうは、もうちょっと、なにかあるんじゃないのか?


『そんなのとはなんだよ春。……これでも、私たちが臨床経験のうえでやっと見つけた方法論なんだ。すくなくとも、……ほかの方法よりは、いちばん成功率が高いんだ。統計を俯瞰しても、間違いない。ヒューマン・アニマルとして調教された経験を生かすことが――いまのところはいちばん成功しているんだ』

『……つまり、いままでいちばん成功した数が多いから、ヒューマン・アニマルの本能を生かして投与してる……ってことですよね……』

『ああ、その通りだよ』

『……でもほんとうにそれしかないんですか……』

『春』




 ネネさんは、僕をじっと見ていた。――珍しく、厳しく。

 気難しい生物学者というすっかり忘れかけていた形容がほんとうなのだと思い知るほどの表情――。



『私がお願いしているわけじゃないんだ。そちらが、人間に戻したいと言ってきた。

 私はそれならともっとも成功確率の高い道を提示しているだけ。科学者って、そういうものだからね。

 ……私のことが信頼できないなら、どうぞほかの研究所でも、機関でも、やりかたでも、頼ってくれ』

『すみません』



 僕は、うつむいた。



『……ネネさんのやりかたがいちばん正しいんですよね……』

『正しさはいま、関係ないよ。ただ、いままででいちばんうまくいってるってだけ。

 正しいか正しくないかはあんたたちが最終的に決めてくれ』





 ネネさんは、すぱあ、と煙草の煙を吐いた。

 座っている視線を落とすと、南美川さんが、伏せた体勢で小さくなってガタガタと震えていた。――このひとの意思ではない、このひとを人間に戻すと決めたのは、僕だ。嫌でも。痛くても。ずっと、このままがよくっても。……そうしない、と決めたのは、このひと本人ではなく僕の勝手な意思なのだ……。

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