さらに、必要なこと
あの日。僕がバスタオルの皺ばかり睨みながら、それでも言い出してしまったあの日。
南美川さんは、嫌だ嫌だと泣くかと思った。
泣き叫ぶかと。
そうしたら、どうすればいいんだろう。南美川さんを抱え上げて、人犬用のキャリーケースにでも入れるしかないのか。そうしてネネさんのところに持っていくしか、もう方法はないのか。
そんな僕の思いと、うるさいほどの動悸と対照的に――南美川さんは、すっかり静かになっていた。
『……わかっていたのよ。ごめんね、シュン。
ううん、ほんとはね……わかっていなかったのだわ』
言葉だけ見れば単純に矛盾しているようなことを、南美川さんは、……ぽつりと言う。
顔を上げれば、……その顔はひどく強張ってはいたけど、動物的ではなかった。けっして。
『……あなたがいつか、もうこのままでいい、って言ってくれると思ってた……』
それは、――僕が南美川さんに、いつかは人間に戻るって言ってくれるんだって、期待していたみたいに。
『犬の立場でも、犬みたいに迷惑をかけないで、人間みたいにがんばれば、あなたはわたしがずっとここにいることを、ゆるしてくれるんじゃないかなあ……って』
……洋服は、まだ絡まっている。
『でも、そんな話があるわけないわね。やっぱり、そんなのは、駄目なんだわ。……夢なんだわ』
ずっと犬として飼ってもらうなんてことを、さりげなく、夢、だなんて言う――。
そんな南美川さんは、すっかり泣き笑いだった。
『……ずっとこのままじゃいられないのね……』
ちらり、とこっちを見た視線にまだわずかな期待を感じて、僕は、また俯くしかなかった。
すがられている。すがってくれるなら、応えたいという気持ちもある。
けど、僕はやっぱりこのひとを人間に戻すのだ――すがるかのように。
『南美川さん。ごめんね』
僕は、もういちどだけ謝った。はっきりと。
『あなたは、もうとっくに犬にされてしまっていたんだね』
……その続きは、あえて言葉では言わなかったけれど。
南美川さん。でも、あなたが悪いわけではない。
あなたが自分で進んで犬になったわけではないのだから。
あなたは、犬にされたのだ。
ここまで、……徹底的に。
そして、人間に戻るためには。
ネネさんの話によれば。
最後の最後、犬となって、僕が経口投与することになる痛い薬――オリビタを受け入れ続けることが、必要になると、いうことだけど。
高柱第二研究所。
ネネさんの研究室。
『なにをさて置いても、まずは体力をつけてくれ』
ふたりで決断を伝えに行ったら、ネネさんは腕を組んでしかめっ面でそう言った。
『オリビタの投与にはなにしろ体力が必要だ』
『痛むから、ですか……』
『それもあるが』
僕の問いに、ネネさんは深くソファに沈み込んで目をつむった。
『根本的に人犬の身体というのは人間と比べてずっと体力がないのだよ。……疲れやすくなっている。それは、そうだろう。人間の身体を――半ば無理やり動物の身体を合体させてるんだから。合成だ。いわゆる、キメラ術だ。生物的にも不自然なんだよ。二本足で歩くのと、四つ足で歩くのと――人間だったら本来は前者が自然だ。……幸奈もよく首とか肩とかあちこちが痛いだろう』
南美川さんはこくんと恥ずかしそうにうなずく。
ネネさんは煙草を取り出して、吸いはじめた。
ふう、とネネさんが息を
『それはね、やっぱり無理をしてるってことなんだ。いや、させているのか。無理な身体だから無理が来る。……そんで凝り固まらせた身体を飼い主がほぐせばヒューマン・アニマルのペットはもっとご主人サマに懐く、媚びてくって寸法なんだから、まあ、……やっぱり如何とも形容しがたい制度だよね、ヒューマン・アニマル制度っていうのはね、まったくね』
だれしもなる可能性はあるのに――ネネさんはそうも、つぶやいた。
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