それはあくまで一方的で
とっくに、気づいていたんだ。
たとえば、あなたが僕に心をすっかり許して甘えてくるということ。
朝、僕のおなかに全身を乗せて、安心しきってすうすう眠る。僕が起きると、ちょっと廊下に出てくだけでさみしがってとてとてついてくる。
歯磨きをしても、お風呂に入れても、もうほとんど迷いなく僕にすべてを委ねて、見せて、任せている。
お散歩とかの嫌なことに対しては、ちょっと駄々っ子になって。
すぐに泣いて、でも頭を撫でて指の腹で顔をすくえば、涙でぐしゃぐしゃの顔でにっこりする。
僕にすべて依存して、そしてそれを恥とも屈辱とも思わないで。
僕が笑えば笑うし、ちょっと怒ればびくっとするし、でも撫でたらそんな不安はどこかに吹っ飛んでしまうみたいだ。
……単純だ。単純すぎて。
あなたは、そんな性格ではなかったはずだ。
もっとひとのことを堂々と見下して、馬鹿にして、評価して、嘲笑う。……いじめられていた張本人だったゆえによくよく知っているなんて、皮肉なことだけど。
なにかにつけ。
南美川さん。あなたは、僕が、高校時代のあなたを覚えているのだということをちゃんと覚えてくれているのだろうか。
ひとの世話を焼くことは好きでも、世話を焼かれるとちょっと困った顔をしてほんとうは悔しがっていたことを、僕は知っているんだぞ。優位に、いたかったんだ。そうしていろんなひとに優しくして、……でも、そんなあなたの周りには、いつだっていろんな人間がいた。
ひとに勉強を教えるのは好きでも、教えられるのは嫌ったよね。
自分が情けをかけられると、隠しもせず、口を尖らせていたりもしたよね。
あなたが不機嫌になれば教室じゅうが凍った。あなたがご機嫌ならば教室じゅうが明るかった。そしてそういう影響力を自身がもつということを、あなたは、ほかのだれよりも骨の髄まで知っていて、だからあんな高飛車な笑顔でいつでも脚を組んでたんだろう――長くて、すらりとして、僕みたいな底辺を蹴り飛ばすのにも大層役立った、あの脚を。
南美川さん。あなたはそういうひとなんだ。
僕は知っているんだよ。南美川さん。――忘れるわけがない。
あなたらしくないんだよ。
僕なんかを――かりにも飼い主みたいに認めて、そんな犬らしく振る舞うなんて。
そんなのは、人間ではなくて、まさしく、犬じゃないか。
南美川幸奈。――僕は、そんなあなたに、耐えられない。
……それでも、
たとえばそれは、僕が引きこもりをしていたときみたいに、必要な時間でもあるのかな、って思った。
……でも。
だからこそ僕は、僕の家族だったひとたちの偉大さを、思い知った。
二年間も、見た感じではまったく変化しない劣等的状況にある相手を見守るだなんて――とんでもない芸当だったんだ。
そして、やっぱり、……劣った僕にはそんなことは、できなかったみたいだ。
たかだか、一ヶ月経たないか経たないかで、……このザマ。
僕は、バスタオルの皺ばかり睨んでいる。当たり前だけど、……布の皺っていうのは、こんなに睨みつけたって微動だにすることは、ない。
「……痛みなんかおそれないでよ」
ごめんね。南美川さん。
だって、痛いのはあなただ。僕ではない。
だから。
だからね。
あなたのためでは、ないんだよ。
いま、僕は、この言葉を、たぶん僕のためだけに言っている。
「痛みは、そりゃ、怖いし、苦しいだろうけど、……乗り越えれば一瞬だろう」
ああ。言ってしまった。
あなたが、当事者なのに。
僕は、いま、たしかに。……あなたに痛みを要求した。
僕は顔を上げない。
……南美川さんの気配がした。
「……でも、痛いものは、痛いのよ……」
ぎゅっと僕は目を強くつぶった。
「痛いのが、怖いなんて、……南美川さんらしくないよ」
ああ。そうだな。
正直に認めよう。
僕はきっとあなたから言い出してくれるのを待っていた。
シュン、わたし痛いのなんて怖くないわ。ううん、怖いけど、わたしがんばるもの。人間に戻るんだわ。だって、あなたがそうしようとしてくれるんだし――そう言ってくれるのを、待って、待って、待って、待って……焦れて、こうして燻るかのように、でも実際は大爆発とでもいえる感情論を、いま、お披露目する羽目になっている。
僕は、あなたの飼い主では、ない。
そして、あなたは犬ではないんだ。
「……わたし、でも、もう、痛いの、いやなの……」
「――調教施設でさんざんそうされたから? 知っているよ。その話だって、さんざん聴いたね。でも、いまはそうするしか、……方法がないんだから」
まったく、調教施設というのはたいした場所だ。
痛みをこんなにもおそれさせ、
南美川幸奈の心までも、こんなに犬そのものに加工できてしまうだなんて。
その優秀性、認めるよ。僕も安くない公的税をそこに納めてるってことの意義を、……そうだね、今度機会をつくってゆっくりと考えてみよう。
「……痛いの、嫌なのっ」
「でもそうするしかないんだよ!」
僕は顔を上げた。
ひっく、ひっくと嗚咽を漏らして泣きはじめた南美川さん――。
「……どうして? ずっと、このままで、いいじゃない」
ぺたり、と腹ばいになった。
涙やらほかの液体やらで湿って汚れていくその顔を拭う手もなく。
いますぐ立ち上がってひとを蹴り飛ばして部屋から出ていくような足もない。
「わたし、シュンに、ずっと飼ってもらえるのかなって、思ったのに」
「南美川さん。僕は言ったよね。そして、約束した。あなたを人間に戻すって」
「……でも、わたし、いまさら人間に戻ってなにになるの……」
僕は人間で、あなたは人間だ。
至極シンプルなその事実を――取り戻そうよ。
取り戻してくれ。
……そう、こいねがうんだ、必要ならば懇願だってするさ。
そのふかふかの四肢にでもすがりついてやる。
「……やだあ、ねえ、シュン、ずっとこのままいっしょに暮らそうよお――」
「無理だ。それは、無理なんだよ」
「……どうしてえ……? シュン、もう、わたしのこと、嫌いなの? どうでもいいの?」
そんなわけ、ないじゃないか――むしろ。ああ。僕の感傷なら、……あとにしよう。
「あなたは人間なんだよ南美川さん。忘れちゃったのかもしれないけれど」
ごめん。ごめんなさい。ゆるして。いや。ゆるしてくれなくていい。――南美川さん。
「僕が、それを思い出させてあげるから」
ああ。もう。――戻れないのかな。
「痛みを、受け容れて」
「……いや……いやよ……このまま、わたし、ずっとシュンに飼ってもらって――」
「お願いでわからないなら命令する。決定事項だ。いまのあなたの所有権は僕にある」
懇願も。命令も。
必要ならば、……なんだってするさ。
「人間に、戻るんだ」
南美川さんは、返事をしなかった。
ただ、すすり泣いていた。
南美川さんはもうこっちを見ていなかった。
僕も、うつむいた。
ずっと、ずっと、いつまでも、そうしていた。
いつまでも――そう、いまが続くかぎりいつまでも。
僕たちは、お互い、視線を合わせなかった。
一方的であることは、僕がいちばんわかっていた。だから。裁いてくれなくって、いいよ。いまも聴いてるんだろう記録してるんだろう思考してるんだろうそしてなんらかの判断を下しているのだろう、ねえ、Neco――この社会をつくった、高柱猫さん、――ねえ。
僕の裁きかたなら、僕がいちばんよく知っている。だから、……裁いてくれなくって、いいんだよ。わかった? なんにも、裁かないで。評価しないで。関与しないで。僕たちに。僕に。ふたりきりにして、そしてそのあとは僕を、……こんな現代社会じゃありえないことだとしても、願うんだ、――ひとりにしてよ。お願いだよ。お願いだ……どうしてこんな社会にしたんだよ。猫。――なあ、どうして。
(第八章下、おわり。第九章へ、つづく)
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