宣告
びしょびしょの自分の髪を乱雑な手つきで適当に拭き取って、全身をちゃんと隠した黒ずくめの格好で部屋に戻ると、南美川さんがベッドの上にいた。
まだその長い髪も毛皮の部分も乾かしてあげる前だというのに、ベッドに乗って、そして先日通販で買ってあげたダークでシックでエレガントなワンピースをくわえて、いや、たぶんこれは、……着ようとしていた。
たぶん、自力で。
ずいぶん、苦戦しているようだ。
僕が部屋に入ってきたことに気がつくと、洋服の裾からぱっと口を離す。
「……あ、シュン、おかえり……」
僕は無言でそこに立っている。
廊下と部屋をつなぐリビングの扉さえも閉じないまま。
男にしては長い髪から自分の肩にしたたる水滴にもかまわないまま。
「あの、あのね、散らかしていたんじゃないのよ」
……わかるよ。着ようとしていたんだろう。
その洋服の、全身への絡まりようを見れば、とてもよくわかる。
「ただね、お洋服を着ようとしただけでね」
知ってる。だから。……知っている。
「だって、わたしも、自分ひとりでできること増やさなくちゃだし。シュンの力になりながら、自分でもできることはできるようにならなくちゃ、って」
ほら。姉ちゃん。……余計なことを言うから。
「まずは手はじめってことでね、お洋服着る練習しようと思って、えへ、……えへへ、びっくりしたでしょう?」
ああ。ある意味ではね。――そんなに、服って絡まるもんなんだね。まるでただの布をぐるぐる巻きにしただけ、みたいに。
「いま、いまはねちょっと難しいんだけど、できるようになる、ぜったいにできるようになるからね、……まずは自分で練習しなくちゃなのよ」
うん。そうか。……南美川さんはね、そう思っているんだね。
「あの、そのね、ちょっと待っててね、もうすぐ、もうすぐで着れそうなの、できそうなのよ、人間みたいに、自分でお洋服が着れそうなの、そうしたら、わたし、わたしちょっとは人間に近づくわ、もちろんねお洋服を着るだけじゃないわよ、もっと、もっといろんなことするの、できるようになるの、ひとり、ひとりでね、自分の面倒は見てね、それであなたの役に立つの、わたし、わたし自立するんだから、そうしたら、そうしたら人間といっしょでしょう? 人間とおんなじみたいになれば、あなたとずっと――」
僕は、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
動悸がすさまじいのは、なにも風呂上がりのせいではない。
バスタオルが、僕の膝でずらされて皺が寄る。
……お風呂上がりの南美川さんに、いつもごろごろしてもらっていたところ。
そうやって全身の水滴をバスタオルに染み込ませてもらえば、少しはこちらもドライヤーの負担が減るから――。
皺の寄ったバスタオルばっかり僕はうつむいて睨んでいる。ああ。髪から。……また、水滴が落ちた。世界とのブラインドカーテンにしたくって異性みたいに長い髪――。
「もうすぐ、もうすぐなのよ……」
顔を上げる。
金髪をもつ人犬の身体の南美川さんと黒いワンピースは、ベッドの上で絡まっていた。黒い布といっしょくたになって、ぐじゃぐじゃになっていた。
無理やりな笑いで、あれ、あれっ、おかしいな、こんなの簡単なのになっ、とか明るい声で繰り返して。
でも、どうにもうまくいかなくて。
虚しく、ただ空虚に――そんなことを、試みて。
……やがてうまくいかないと、笑顔も明るい声ももたなくなって。
ただ、無言で。
あっちをくわえては、こっちをくわえる。短すぎる手足を通しては、ひっこめる。
……どんどん、どんどん、絡まっていく。
南美川さんは泣きそうな顔で、それでも意地と言わんばかりに、布との格闘を続けて――。
僕は、ふたたび足元のバスタオルだけを睨んだ。
ああ。責任は。こんなことにしてしまった責任は、僕にある。……わかっていた。だからこそ、このひとを直視できなかった。
犬が布と戯れてきゃんきゃん言ってるだけにしか見えないいまのこのひとを、……どうしても。
「……南美川さん。ごめん」
南美川さんが動く気配が、消える。
たぶん、僕の話に、三角の耳を集中させている。
「ごめんね、南美川さん、ごめんなさい」
先に謝っておく。
僕が、これから言うことを。
決定することを。
いや。ほんとうは……ずっと、わかりきっていたことを。
「……悪いけど。ほんとうに、悪いけど」
そう。ほんとうは、ずっと前から気がついていたんだ。
退院してからの、楽しいけどただ怠惰な日々。決定的な話題を避けていたこと。癇癪や大泣きが減って、やたらといい子になった。ものわかりがよくなって、甘えてくるときも素直になった。僕が撫でれば嬉しい顔を見せたし、僕が疲れていればそっと寄り添ってくれた。
そして、姉と妹が来てからは、一生懸命役に立とうとしていた。
そう。――犬として。
ごめんなさい。南美川さん。
……あなたの心がとっくにほとんど犬になりきってしまっていたことに――僕は、ほんとうは気づいていたのに。
「人間に、戻ろう。……ごめん」
僕は、そのまま身体を大きく折って、額をバスタオルにくっつけた。
ちょっと、湿っている。……犬のにおいが、する。
そうだよ。僕は。僕という人間は。……気づいていたと、いうのに。
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