朝の歯磨きのほんとうのところ

 僕は洗面台から南美川さん専用の歯ブラシを取り出すと、部屋に戻った。

 いつも通り、南美川さんはいい子にしている。ガラスのテーブルの前で、床に置く背の低いソファの上で、お座りの体勢で。

 歯ブラシを持った僕を見ると――ちょっと照れたように、はにかんで笑う。


 僕は無言でしゃがみ込んだ。

 ほんとうなら、ここで、……じゃあ磨くからね南美川さん、って言ってあげるべきなんだろうけど。そんなことは、重々承知しているんだけど。



 ああ、どうしてかな。まだ寝ていたくて、頭が痛いから? どうせこんなのは起きているうちに治るっていうのに。それとも、朝にやることが多すぎて、優先順位がなんだかぐちゃぐちゃになって、自分のことといえばトイレに行ったとかいうほんとに最低限のことくらいで、自分の歯磨きよりも先にこのひとの歯磨きをしようとしているから、だろうか。



 最初のうちは、いちいち声をかけていた。どこか申し訳なく。いまは姿かたちこそ人犬でも、ほんとうはおとなの女性で、身の回りのことだって自分でやりたいんだろうっていうかすかなプライド――いや、ある種の絶望を感じ取っていて僕は、だから、不器用に、過剰に丁重に、……口開いてとか、痛くない? とか、磨き残しはない? とか、もうちょっとだからね、もうすぐ終わるからね、とか……いろいろと、声をかけていたものだったのだ。



 ……でも、なんだか、変に慣れてしまったのかな。

 僕が無言でも、しゃがみ込めばこのひとはもう素直に口を開けるし。

 ……そこに、もはや、恥じらいやためらい、ましてや絶望なんてものは――まるで存在しないかのように見える。ほんとうのところは、……南美川さんの心のなかだなんて、覗き込めるわけもないから、あくまで僕のほうからそう見えちゃってるってだけなんだろうけど――。




「……あっ」



 南美川さんが、高く呻くような声を出した。

 考えごとに気持ちをほとんどもっていかれていた僕は、ほとんどそのままぼんやりと南美川さんの顔を見た――そして泣き出しそうな顔を見て、こっちも、あっ、と声をあげた。



 僕の持つ歯ブラシが、このひとの口のなかの、歯茎と上唇のあいだくらいに挟み込んでしまって……これでは、痛いはずだ。奥に、……突っ込み過ぎた。



「……ごめん。痛かったね」

「あ、いいの、だいじょうぶ……わたしこそ、大袈裟な声を出しちゃって……だいじょうぶなのよ、そのくらい、……だって施設にいたころなんかよりはずっと、ずっといいし――」

「そういう問題じゃないだろう。……いま痛ければ、痛かったってことだからね」



 自分でも、なんだかなにを言って、このひとにどう受け取ってほしいのか、どうう顔をしたいのか――わからない。

 ……わからないんだ。なんだか。最近。いろんなことが、かすんできた。




 家族にある意味では認められてることがわかり、南美川さんは姉にいろいろ言われた影響なのかやたらと自分でできることをやろうとするし、

 いい傾向じゃないか、そう思うんだけど、……だけど、





 いろんなことが、どんどん、かすんでいく。……どういうことなんだろう、これは。なんだろう。考えたくても、……頭ももやっとしていて、よくわからない。ああ。だから。寝不足なんだってまだ、会社でもないんだから、寝ていたいのに――。




 南美川さん。

 あなたと最後にはしゃいだ夜は、……そして最後にわかりあったと思った夜が、カレンダーで見ればついほんのこのあいだのことのはずなのに、なぜだか、いま、こんなにも――遠い。

 なんでだ。なんでなんだよ。……あなたのためならなんでもする、なんでもできると思ったし、実際に南美川さんの実家に行って、抜け出して、どうにか助かって、それで、いま、いま――ここまで、地続きなのに。




 ……どうしてこんなに簡単に、僕の誓いはかすんでしまうんだ。




「……シュン。まだ、眠い?」


 南美川さんが心配そうに首をこくりと傾げてくるので、僕はせめて意思を最低限伝えようと首を横に振った。……黙ったまま。

 歯磨きを、まずは終わらせてしまわないと。そうしたら、今度は自分自身の歯磨き。洗い物をして部屋もざっと片づけて。ああ、家賃の支払いもアナログ式にいったん変えてるから、残高とか確認しないと。そろそろ、まだ買い出しも行かなくちゃな。そもそも、南美川さんをたまにはお散歩させないと。毎日家にいるんじゃ、いけない。でも、お散歩と買い出しをいっしょに済ませるっていうのは、微妙だな。外に動物をつないでおく柵が近所のスーパーにあることは知っているけれど……あんなところにつないでしまったらいけない、可哀想すぎる。もちろん、そうすれば合理的で楽なんだけど、でも合理性のせいで南美川さんを傷つけてしまっては、いけない、……これ以上そんなことをしては、いけない。

 僕はそんなことをけっしてしない。そう。……僕だけは。



 僕は、僕だけは。


 世界で、ひとり。

 金髪の柴犬モデルの人犬ではなく。

 南美川さんの――南美川幸奈という人間の、味方でいなくっちゃならないから。



「じゃあ、疲れてる?」

「いいや……」

「機嫌、悪い?」

「……いや……」

「先に自分の歯磨きしたかった?」



 返事する気力が、だんだんなくなってきて、……僕は力なく首を横に振る。



「じゃあ……じゃあ……どうして?」



 なにが、と言い返す気力もない、……ああ、奥歯のほうだってきちんと磨かなくっちゃいけない、万一虫歯にでもなってしまったときに、このひとを動物病院に連れていくなんて、常識的にはそうでも、僕は、僕が、……そんなことをしてはいけない……。





「どうして、シュン、そんなに怖い顔ばっか、するの……?」

「そんなことないよ」




 返した僕の言葉は、どこまでも平坦だった。――これならNecoの人工音声でのしゃべりのほうが、よっぽど、まだ、……人間的だな。

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