けっきょくのところ、似ている姉弟

 ……姉ちゃん、言ってることは、わかるけど。

 でも、南美川さんが人間に戻るためには――代償として、比喩でなく、気が狂う痛みが、苦しみが、必要だというのに。


 それは、僕は肩代わりしてあげられないんだ。いや、厳密には、道はあるらしいよ。僕が、……上位数パーセントどころか、零点数パーセントほどの、そんなところに入る相対的超優秀者の、有能で優秀な研究者よりも、

 そんなすごいひとの研究所がまるまる二個ぶん手に入るほどの、……お金が、あれば、痛みのない薬を買って――南美川さんにプレゼントしてあげることが、できるらしいけど。



 ……考えなくは、なかった。いろいろと、調べたりもした。

 でも、どう計算しても、無理だった。

 ネネさん、……高柱の血を引く高柱寧寧々さん、……あのひとだって払いきれないほどのお金が、たったひと粒買うだけで、かかるんだ、

 僕はほんとうに責め立てたい、経済って、どうなっているんだよ、経済のひとたちはちゃんと、仕事をしてるのかって、だって、だってどうしてたったひと粒の薬がそんなにするんだ、政治家だったらポンと手に入るというのに、おかしい、おかしいよ、資源の配分間違いまくってるんじゃないのか――そこまで考えて、ああ僕はまるで社会に文句ばかり言う無能な劣等者なんだなって思ったし、……事実、実際に、そうなのだ。



 ……犯罪でも、するか? ――古臭い。発想が。そんなことをしたら、収入どころか……一発で、僕も人間未満だ。南美川さんの隣で飼ってもらって、仲よくするか? ハッピーエンド? ――まさか。



 僕はそんなことを思って、でも、実際には姉にそんなことを言えるわけもないのだった。



 いまの姉と南美川さんのやり取りでは――南美川さんはキャンキャンと吠えるかのように事情を一方的にぶちまけてるだけのようでありながら、そのあたりは巧妙に避けて、言及しなかった。



 なぜだかは、わからないけれど――それはもしかしたら南美川さんの、南美川幸奈というひとりのひとの強さで、もしかしたら最後の矜持なのかな、なんて僕はぼんやりと思っていたんだ。……痛みが怖いということは、たぶんこのひとは、ほんとうに信頼できるひとにしか言わないんだ。たとえ、かけらでも。

 そして、僕は、そのことを南美川さんの口から聞いたかというと――。




 ……まあ、なので。

 姉は、あくまでも痛みの件は知らないで、それで話を進めてゆくのだ――。




「……百歩、いや千歩、いや万歩譲って、南美川さんがいま人犬で、戻れるかどうかはわからないけどすくなくとも春はアンタを人間に戻すつもりで、活動をしているのは、いいよ」



 百歩、いや千歩、いや万歩――か。姉は、いつもわざわざそういう物言いをするから、……ますます人当たりがキツく見えてしまうというのに。そのひとことがなければ、もうちょっと人間関係だって――だなんて、そんなの僕がいちばん言う権利がないけれど。中学まではただぼんやりと他人を見下し、高校では人間としての尊厳が破壊され奪い尽くされるほどいじめ抜かれ、ひきこもって、そのあとひとりの友人も、ましてや恋人も、そもそも親しい相手だってつくれていないような……僕が。



「ただし、ちゃんと決着はつけてほしいんだ。ずるずると、人犬のまま、飼い続けてほしくない。……南美川さん。忘れないでほしい。あたしは、これでもこのひとの姉だ。家族なんだ、血のつながりも、法律上も」



 ああ、だから、血のつながりだなんて――姉はほんとうに、いちいち古臭くって、ほんとに、……ほんとうに……。



家族権限かぞくけんげんを用いれば、南美川さんをヒューマン・アニマル処分所に連れていくことだってできるんだ。再調教施設に送り込むことだって」



 南美川さんが尻尾と身体を強張らせるよりももっと、僕の行動は速かった。身を乗り出して、声を上げる――。



「なんてこと言うんだよ!」

「なんてことも、なんてないこともないよ」



 姉は、じとりと――温度は低いのにどこか湿度のこもった目で、あろうことか、……僕をすこし上目づかいで見てきたのだ。まるで――こちらを、うかがうかのように。



「……なんだよ……姉ちゃん……」

「あたしは、ハッキリ言って南美川さんのようなひとが嫌い。いや、いまは犬だけどさ。……あなたみたいな、明るくてハキハキして、人懐っこくて、なんでも言えちゃうひとが、嫌い。

 それに、あんた……あたしと違って、美人だし。それなのに、人犬の身体にされちゃって、そのぶん、その、……だから……社会人として人間未満に同情はするけど」



 それだけ言うと、そっぽを向いた――その横顔は、僕がいままで姉に見出したことのない表情だった。戸惑った。なんだろう。――ずっと恐れてきた姉なのに、もうとっくに社会人の姉なのに、自分に妙に似ているところがなんとなく嫌で避けてきた姉なのに、なぜか……純粋な少女のように見えて、ほんとうに戸惑う。




「……あの、間違ってたら、ごめんなさい」




 南美川さんが、おずおずと言い出した。その顔を、ちょっと目を細めて見ていて。さきほどあんなにやりあっていたのに、なんでだろう、どこか、切なそうに、……愛おしむように。

 なんだ。なんだってんだ。南美川さんは――姉のこの表情に、いったいなにを見出したっていうんだ。




「……その、間違ってたら、ほんとうに、でも……あの。その、……えっとね、

 あなたも――いじめられていたの?」

「――そんな話をしたいんじゃないよ!」




 姉は、またしても南美川さんに食ってかかった――しかしその肩が言葉の前にびくんと跳ねたことを、僕は、見逃さなかった、……だってお互い似ている姉弟だ。



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