理解

 南美川さんと姉ちゃんは、そのまましばらくわあわあと言い争っていた。

 議題は、僕がそういうひとだとか、そういうひとじゃないとか、なんとか。



 ……肝心なはずの僕のことをふたりとも忘れ去っていたかのようだったから、僕はその場でぼんやり座ってその光景を眺めていることしかできなかった。まあ……南美川さんが姉ちゃんに噛みついたりするのは、どうにか力ずくでも止めていったけど。



 高校時代の僕がなんとか、とか。どういじめたんだ、いじめられたんだ、とか。そのあとの引きこもりの僕がどう、とか。優秀だとか、劣等だとか。能力だとか。ゆるしたこととか、殺さなかったこととか。南美川さんの実家に行ったこと。理由。

 そこまでして南美川さんを人間に戻そうとする僕の心理。わからない。それは、どちらも、わかってない。けど、たぶんこうだ、ああだって類推を言い合う、残念ながらどちらも的確ではない――僕にとって南美川さんが愛しい相手だから、ではないし、かといって僕が優しい人間だからなんてこと、ぜんぜん、ないのだ。


 ……話のなかで、なんとなく状況が姉にも伝わっていった。つまり、入院の理由は南美川さんの実家に書類を取りに行ったらそこで監禁されて痛めつけられていたからだし、仕事を休む理由は南美川さんを人間に戻すための期間なんだ、ということが。


 ただ、どうしても、……実家にますます寄りつかなくなった理由は南美川さんだという認識を、姉は変えてくれなかったけど。

 そのつもりはなかった、けど――もしかしたら、南美川さんがうちに来て、それなりに休日に忙しくなってきて……だから結果として実家に帰らなかったということは、充分にありうる。

 思えば、南美川さんをうちに迎えてから。僕は、当然のごとく実家にいちども戻っていない――。



 そんなことを、わあわあ、わあわあと話して。

 そして、ふたりとも、やがては疲弊していったようだった。



「……まあ、なんだ、アナタねえ、よくわかんないけどねえ」



 姉はぐすりと赤い目をこすった――この姉が、バスケットボールの試合の勝ち負け以外で泣くだなんて、ほんとうに……珍しい。



「……なによ……」



 南美川さんは南美川さんで鼻をすすっているので、指の腹でぬぐってあげて、ティッシュにそれをくっつけて捨てた。……ティッシュでそのまま拭いてあげてもいいんだけど、こうしたほうが南美川さんの慰めになるような気がして、南美川さんが泣いているときにはまずは肌でその液体をぬぐい取ってあげることにしている――。



「……だから、アンタは人犬だけど、春にとってはれっきとした人間なわけだ。しかも……高校時代にいじめをしてきた加害者のやつ」

「そうよ……」

「で、どうすんの。けっきょく。――人間に、戻れるの?」



 僕も、南美川さんも、なにも言わない。

 動かない。――それは、僕たちがずっと先延ばしにしてきたこと。

 毎日楽しく暮らすなかで、その親密な楽しさのなかに、できれば――埋めてしまいたかったもの。




「……春が、そこまでかばうなら、入院もしてまで仕事も休んでまで、……そこまでだいじなら、もうあたしはなにも言わない。言う権利がない。……けどね。それは、ほんとにアンタらの言う通り、南美川さんが人間に戻れるならって前提だ」

「……それ、どういうこと、姉ちゃん……」




 姉ちゃんはギロリと僕を睨んだ。




「まさか、南美川さんが人犬のまま飼い続けようだなんて、思ってないだろうね。アンタにとって南美川さんは、ただの人犬じゃないんだろう。人間なんだろう。

 でも――あいにくだね。あたしの目にも、社会さまの目にも、……この子は確実に犬にしか映らないんだよ」

「……知ってる、そんなこと、でも、それがいまどういう関係が――」

「いや知ってもないしわかってもないね。甘ちゃんが」



 姉は、吐き捨てるように言った――そして続ける。



「南美川さんが人間に戻ってくれるなら、まあそこそこのハッピーエンド。南美川さん、そのときには春をもらってやってくれ。

 けどね。もし、南美川さんが、ずっとこのままってんなら――話は、ぜんぜん別だよ。人犬を人と言い切る倒錯者のもとに、恋人も嫁も来るわけがない。……本人が人犬のほうを、だいじにしてるなら、なおさら」



 ……嫁だなんて、相変わらず姉は、使う言葉が……古臭い。



 ね、南美川さん、わかるよね、と――なぜか姉は、南美川さんのほうに語りかけるていで言うのだ。




「春には幸せになってほしいんだ。人犬のままならば、南美川さんなんて邪魔なだけだ」




 姉は、うつむいて――犬歯を、剥き出しにしていた。

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