いじめないで

 南美川さんは、呆然としていた。

 ただ、呆然としているとしか言いようがないほどに――そこだけ、時が止まったかのように。



 つう、とその頬に涙がつたった。ああ。……もう自分の手では、拭いきれないその涙。このひとの涙はいつも、僕なんかとはぜんぜん違って、どうして、そんなにきれいに流れていくのか――



「被害者ぶってんじゃないよ!」



 姉の一喝が、場の空気を裂いた。

 南美川さんはびくんと肩を震わせて、それと同時に口も開いてわななかせはじめる――僕はとっさにそんな南美川さんを抱き寄せた。



「姉ちゃん、やめて。……怖がってる」


 

 ――ああ。ほんとうに、人生なんてなにがあるかわからないや、なんて。……僕は、なんだか、頭のどこかが妙に冷静だった。頭のほとんどは、もう熱を帯びてしまって熱くて熱くて仕方ないから、そのぶん、どこかひとつは冷えたのかもしれない。……ああ、オールディなマシンパーツみたいだ、僕の頭はじっさいに――もう古臭くて仕方ない用のないマシンと、どこか似ているのだろうし。



 いや、だって、そうだよ。

 ほんとうに、人生なにがあるかわからない。

 だって。だってさ。……あのころは。高校時代は。




 ずっと、思っていたんだ。

 もう、いっそ姉でもいい。だれか僕の味方になってくれるひとがあらわれて、こうやって南美川さんたちを撃退してくれないか、なんて。

 そう思っては、家族に洗いざらいぶちまけちゃおうかなんて、夕食の席、……僕はいつもあのとき食物とともに自分の口のなかを噛んでいた気がする、

 助けなんて、求められたわけがないんだ――だからこそだよ。姉でも、母さんでも、父さんでも、なんなら小さな妹でも……味方をしてくれれば、あの地獄のいじめはもしかしたら、なくなるんじゃないかなんて悩んで。



 毎晩、毎晩、自分の口のなかの血はマズいなあと思いながら、いじめられはじめて二年間……僕は、ついに、家族に自分の口からいじめのことを、言えなかったのだ。




 南美川さんたちもそこはわかっていた気がする。

 助けて、と家族に言えるような性格であれば――あのいじめは、たぶんあんなにも複雑化しなかったし、重症化もしなかったと思うんだ。




 だから、姉がいじめのことを知って、南美川さんに毅然として怒鳴りつけてくれるだなんて、ときには、熱にうなされるように見た夢のごとき状況だったのに――。




「なんだよ、春、その子があんたをいじめたんだろ――!」

「……やめて、ほんとにもう、やめてあげて、姉ちゃん」



 僕は、かばっているんだ。

 南美川さんを。南美川、幸奈を。僕をいじめたひとを。張本人を。

 僕の高校生活を壊して、僕の未来を壊して、僕のその後も壊して、姉の期待もたぶん壊して、妹のなにかもたぶん壊して、母さんをあんなに疲れさせて、父さんに余分なお金を出させて、……そのすべての原因となった人間を、僕は。

 ……僕が、かばっているんだ。




「南美川さんは、もう充分罰を受けたよ」



 僕の声も滲む。まるで社会人とは思えない、幼稚な声色となっていた。ああ。情けない。僕はいつまで――こんなん、なんだろう。いったい、いつになれば、ちゃんと、おとなに、なれるんだろう。姉との話し合いで泣いてしまわないような……。



「もう、いいんだ。……これ以上、叱らないで。怒らないで。怖がらせないで。僕が……それでいいって、言ってるんだ」




 ――南美川さんと、再開の最初に約束したことを思い出す。





 殺さない。犯さない。いじめない。飢えさせない。寒くさせない。熱くさせない。溺れさせない。倒れさせない。殴らない。叩かない。蹴らない。捨てない。そして、殺さない……。




「いじめないで」



 僕は、言った。

 それは、僕があのとき南美川さんたちに言えなかったこと。



「南美川さんを……」




 ――僕をいじめないで、とは言えなかったくせに。

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