姉の、意外な面

 ――しん、とした。



 南美川さんは硬直している。身体の動きのみならず、尻尾が固まることで、それがよくわかる。

 僕は南美川さんの身体を膝の上で抱えながらも、視線は自分の腹のあたりにうつむけている。だから、南美川さんがどんな表情をしているかは知らない。知りたくもない……いや、違う、そんな突き放した感情ではない、でも、いまは、……見たくない。

 たとえそれが単に問題の先延ばしだと、知っていても、だ――。



「……どういうこと?」



 降ってきた空姉ちゃんの声は、冷え切っている。



「……アンタ……春を、いじめたわけ?」



 姉ちゃんは、僕に呼びかけるときにもアンタというけど――このとき呼びかけているのは南美川さんのほうだと、さすがに僕にもわかった。




 南美川さんは答えない。

 姉は返事を待っている。

 姉は、……そこにおいては僕と違って、こういうときにごまかしたり退いたり、しない。

 相手がどれだけ時間をかけていても、それを待って、相手から言葉が生まれてくるのを待つのだ――そのせいで、僕はいままでの生涯、どれだけどもってきたのか。言葉を紡ぐことを、おそれるようになったのか。数えきれないし、それは、もはやはかり知れるものではない。……もはや、僕の性根の隅々にまで染み込んでしまっていることだから。




 ……そして、それゆえか、南美川さんは、ついに答えた。



「……はい」



 最初は、蚊の鳴くような声で。



「わたし、このひとを、いじめました」



 しかし、だんだんしっかりとしてくる声で。



「とっても、ひどく、いじめたの。人間だと思ってなかったから。思えなかったのよ。……わたしのほうが、勉強がずっとできて、優秀だったから。シュンの得意科目か、なんだったんだろう。そうよね、当たり前だわ、シュンにもなにか得意科目があったはず。いま、プログラミングができるようにね。でも、でも、――わたしからすれば、そんなものはないに等しく見えちゃったの。勉強が、できないからって……わたしよりできないってだけで。わたしは、ほんとに、お馬鹿さん」



 その声はまるで、語る内容に反比例していくように。



「……そのせいであなたたち家族にもよくない影響を与えちゃったのよね……このひとが、高校のあとひきこもってたんだとしたら、それはぜったいに、わたしたちの……ううん。わたしひとりのせい」



 そんなことを語っているのに、ここまでくると、もう声色はひそやかな微笑みさえ含んでいて。



「……ごめんなさい、空さん」



 南美川さんが、明るく、姉を――呼んだ。



「あなたの、……あなたたちのだいじなひとを、わたしがいじめて、だめにしたの。どう謝っても、ゆるされないわ。でも……わたし、もう、人間じゃないから……。笑って。わたしのこと。嘲笑って……。


 ほら、こんなに手足が短いの。尻尾も、耳も、動物のものなの。人権はないし、なにひとつ、自分じゃ生活できないの。不格好だねって、哀れだねって、ひとりじゃなんにもできないんだねって、笑ってください。……馬鹿にして。



 ……それでゆるされるなんて思ってない。けど、……わたしは、もう、なにもできないから……だから、ひとをいじめるような劣等な人間は、こうなるんだなってどうか、いくらでもおもちゃにしてください――」



 ……南美川さん、やめてよ。

 もう、やめて。

 ……そんな、なんてことない雑談みたいに、自分のことを、そんなふうに――言わないで。言わないでよ。……僕は、僕は、そうだ、たしかに高校時代のことを思い出せばいまもそこに囚われている、……ゆるしたなんて、そうだね、言い切れないんだけど、でも、でも、――でも。



 そんなふうに、自分を削って、無理やりゆるしてもらおうだなんて、しないで。あなたは、……あなたは、もっと気高いひとなんだから。



 そう言いたかったのに、僕の口はまるで昔話でいう魔法でもかけられたように、動かない、声が出せない――だから代わりに、寒さを防ぐみたいに南美川さんの身体をぎゅっと、抱き寄せた。




「……ふうん。つまり、アンタは自分が勉強できて優秀だったからって、そこまでじゃなかったうちの弟を見下して人間扱いしないでいじめたってわけ?」



 姉の顔を見れば、つまらなそうに顔をしかめていた。……あ、この顔は。



「つまり、そのせいで、うちの弟はひきこもりになったのか……」

「そう。そうなんです。わたしのせいなの。シュンは、もともとは――」

「いや、いいよ。……弁解しないでもいいよ、もう、べつに。そういうのが聞きたいわけじゃないし」



 姉は突き放すように言った。南美川さんが、びくんと肩を震わせた。だからこそ僕にはわかった。南美川さんの肩の人間のときのままの素肌を、ぎゅっと抱き寄せた。……背中ほどじゃないけど、ここにも鞭打たれていたころの傷跡が、痛々しい痣となってくっきりと残ってしまっている。





「――いや、わかるよ。南美川さんの気持ち」

「……へっ?」



 南美川さんが、……ひどく間抜けな声を発した。

 姉はきまりが悪そうに、……さらに顔をしかめる。



「どうせ、春がどん臭かったんだろ。このひと、けっして根は悪くないんだけどさ、妙にひとを苛つかせるところがあるからね……中学までは自分がそこそこ相対的に成績悪くないからって、鼻持ちならないところがあったし。……高校からは自分の能力については謙虚になったなって思ってたんだけど、そういうことだったのか。……ま、そういうことも、人生にはあるよね」

「――そういうこともある、って、ちが、違うの、わたしはシュンのことをほんとうにひどくいじめて!」

「ふうん。……そんなに?」




 姉はにやりと野性的に笑った。……犬歯が、楽しそうに、剥き出しだ。




「そんなに悪いと思ってるなら、償いとして、弟の代わりに、事情を説明してもらおうかな。……不審な入院に、仕事を休むこと。家族に通知が来てるんだ。あたしは、事情を訊きに来たんだ。――いつかは自分から話してくれるだなんて希望的観測の過ぎる家族と違って、あたしは、弟がそんなことできないって知ってるから。

 ……そういうところがこのひとはひとを苛つかせるんだ。南美川さんも、……だから、このひとを、いじめたくなったんだろ……」




 南美川さんに向けてそう笑う姉ちゃんの顔は、たしかに楽しそうでもあり、でもやはりすこしは――切なそうだったのだ。

 僕はうつむいて唇を噛んだ。そりゃ、そうだ。――弟が、じつはいじめられていたことを知ったのだ。それなのに、姉ちゃんは――なんか、妙に明るい雰囲気でいる。



 ……どうして、なんだろう。

 自分とそっくりだと感じていた姉は――やはり、自分とは、他人なんだ。当たり前の事実を噛み締めながら、僕は南美川さんの表情をのろのろと覗き込む――。

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