幼い弟

 ……僕が、優秀だなんて、考えてみたこともない。

 もちろん、そんなことは。もちろん、――そもそも、事実として、そんなわけもない。


 姉ちゃんにそう思われていたことだって、知っていたどころか、想像したことさえない。

 僕と姉ちゃんは、同類じゃないか。どちらも不器用で、不愛想で。でも、姉ちゃんのほうがつねに一歩、いや二歩は先を行っている。どころか――社会性や、ひととしてまともだということにかんしては、……姉ちゃんは、僕のずっと、ずっと、はるか先を、いっているひとなのだ。――それなのに。



 ああ、だからいまのはやはり、僕の都合のよすぎる聞き間違いなんだと。

 ほんと、なんて都合のいい頭と耳を持っているんだ僕は。ついに姉にそんなありえないかたちで認めてもらう聞き間違いを、いくら南美川さんの前とはいえ、してしまうだなんて、おめでたいな、……いや南美川さんの前であるがゆえか、ああ、僕は、ほんとうに駄目だ、ひととして駄目、ほんとうに心底気持ち悪い――。



 そうやっていつものように自分なりに納得しかけていたところに、さらに姉は言ってくるのだ。

 畳みかけるかのように――でも、じっさいはたぶん、そう見えてしまうってほど、必死に。


「……南美川さんにはいろいろあったんだと思う……。あたしがいまするべきなのは、あなたに同情して、理由を聞いて、――社会人らしく弱者に対して憐れむこと、なのかな。でもね、南美川さん。あたし、この通りあまりそういうのがうまくなくて」

「うん、……わかります」


 こんな状況、こんな関係。そこで躊躇なく、ひとのちょっとしたどうしようもない性質を、わかる、とか言い切ってしまうあたりが――やはり南美川さんは、南美川さんなのだ。いつでも、どこでも、……人犬になってさえも。


「……そういうのもあとでちゃんとやるから、あたしの気になってることを先に尋ねても、いい?」

「うん、いいわ」


 南美川さんは僕の腕のなかで、機嫌よく尻尾をいちどぱたんとさせる。……あれ、リラックスしてきたな。

 対して姉ちゃんは、ますます緊張を帯びていくのが手に取るようにわかってしまう。



 ……これでは、どっちが年上でどっちが年下なのか、そもそもどっちが人間でどっちが人犬なのか、わかったもんじゃない。

 南美川さん、南美川幸奈というひとのふしぎな魅力は、……僕が高校時代には向けてもらえなかったことだけど、でも、このひとのそういう妙にひとを惹きつける、ひとに対して無防備ともいえるほど無邪気に向く雰囲気は、ずっと、ずっと、こうやって――存在しているんだ。


 ……そして、それは来栖空くるすそらという、僕と嫌なところが似ていて、でも異性だし、僕よりずっと家族や社会とうまくやってるし、きちんと趣味ももって、その趣味でも活動を長年し続けていて、しっかりしている、

 だから僕なんかよりずっと優秀な存在の――姉にも、躊躇なく向くものなのだ。




 姉ちゃんはこめかみに手のひらを当ててしばし目をつむった。……生来のものと、バスケットで鍛えられた経験が合わさって、女性にしてはごつごつと武骨で大きな手。そうやって広げていると、……そこになんどもバスケットボールがふれているんだな、と容易に想像することができる――。




「春って、どんな人間だった?」




 ――ん? なんだ、それは。

 いま、僕の話をしようとしてる? 高校時代の僕のことを、姉が南美川さんに尋ねている? 知りたがっている? ――まさか。ああ、僕の無意識下の願望や欲望というのは、ほんとうになんて気持ち悪く、醜いのだろう。

 姉に、僕なんかがまともな興味をもってもらえるわけがないのに――たったひとり家族に馴染めず、……家族に多大なる迷惑をかけた、




 いちばん、劣っている僕。



「……姉の目からだとどうしても色眼鏡が入ってしまってね……」

「……色眼鏡って、どっちの?」

「そりゃ、なんだ、アンタ。……やっぱり春は学校の勉強なんかがあたしよりできたから……でも、春だってそりゃ超上位者ってわけじゃないさ。そりゃ、知ってる。でもさ……学校での春は、いったいどんなんだったんだい。馴染めてたのかい。得意科目は、なんだったんだ……」



 南美川さんの耳がみるみるうちに萎れていく。



「あたしたちには春はなにもしゃべりたがらないしさ。家族の知らない春のことでも、高校のいっしょだったアンタなら――」





「姉ちゃん、いいかげんにして。南美川さんはいま人犬なんだよ。社会から、人犬にされたんだよ。そんなどうでもいいことで人間だったころのことを訊くなよ。それに、……それに、僕は優秀なんかじゃない。その証拠に――南美川さんたちには人間だってみなされずいじめられていただけだよ!」




 ……自分でも、びっくりするほど、尖った声で。

 僕は、怒鳴ってた。……姉に対して喚き散らす、幼い弟のように。





 ああ、僕は、どこまで劣等なんだ――どこまで劣等になっていけば、僕は気が済むのだろうか?

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