はじめて聞くこと

「……えっ」



 そんな拍子抜けした声を上げると、そこではじめて南美川さんは戸惑いを見せた。僕は頭を抱えたくなる。――遅いよ、南美川さん。


 困ったように僕を見上げてくる。僕はとりあえず高速でうなずいた。もういいよ、もうここまで来たら、名乗るしかない。これでいまさらただの一匹の犬です、わんわん、なんてされたほうが――不自然でしか、ないじゃないか。



 南美川さんはもじもじと言い出した。……さっきの強気が嘘のように。



「……え、っと。南美川、幸奈……です。でも、それは人間のころの名前だけど……」

「南美川さん、か。はあん。なるほど……?」


 姉ちゃんがじとっとした視線を向けてくるのが、いたたまれない。僕にはその思考が読めるかのようだ。……春、あんた、それで南美川さんとか呼んでたんだね? って――。




「そんで。弟と、どういう関係?」

「……あの、それはさ、姉ちゃん、違うんだ」


 ああ。ほら僕はまた、間違えた。違うとか言って、まだなにも説明していないのに。違う、違う、そうではなくて、そうじゃなくって、ええと、いま姉に言うべきことは、言葉は、組み立てろ、劣って醜い頭を使うんだ僕――。


「べつに僕たちは犯すとか犯されるとかいう関係じゃなくて……っていうか、あの、その」


 だから、違う。そこでもないって。


「再会、したんだ。もともと、知り合いだったんだ。でも、友達とかだったわけじゃない。その、高校がいっしょだったんだけど……」

「高校のクラスメイト?」



 姉が急にすっとんきょうな声を上げた。

 そして――不審げに目を細めて、南美川さんをぎゅっと睨みつけるように見据えてくる。



「……え。春の高校のクラスメイトだった――ってことですか、その、……南美川さんは?」

「あ、はい、いちおう……むかしのことだけど」

「何年のときの? 一年? それとも、そのあとの、二年生からの?」


 ……僕は、戸惑っていた。なんで――いま、そんなことを訊くのだろう? ……学年?


「あの、その、……二年生と三年生のときの、です。二年生のときにはじめていっしょのクラスになって――」




「えっ、だったらなんで――そんなことになったのよ?」



 姉はまたしても、いやもっとすっとんきょうな声を上げた。

 南美川さんもだろうけど、僕もいまいち状況が読めない。なにが。……なにがだ? どういうことなんだ? 姉ちゃんは、僕のいじめのことは知らないはずだし、いったいなにがいま姉のなかでこんなに問題になっているんだ――人前なのに考え込みすぎることを開始してしまって、がじがじと爪をかじり始めてしまうくらいには。姉ちゃんだって、そりゃひとより不器用ではあるけど、……人前で家での癖では出さないってくらいには、社会性を身に着けたはずの――社会人なのに。



「あの、……お姉さん?」



 気づかわしげに――南美川さんは、姉ちゃんに声をかけた。はっきりと、……姉に対してそう呼びかけて。初対面で。南美川さんは、もう人犬の立場だっていうのに――そうやってやはり、ひとに向けてしゃべることができる、ひとなんだ、って、僕は……。



「わたし、なんか変なこと言っちゃったでしょうか……だいじょうぶ、ですか?」



 僕は天井を仰ぎたくなる。ああ。南美川さん。――あなたはまた、ひとの心配をしている。自分自身の立場が……そうであるって、わかっていないはずもないのに。



 姉は爪から口を離して、じろりと南美川さんを見た。

 まるで激怒しているような顔。でも、いちおうきょうだいとして付き合いの長い僕にはわかる。これは、怒っているのではない。深く、深く――ただ、困惑しているんだ。どうしたらいいかわからずに、威嚇みたいな態度になっているんだ……。



「……いや。違うよ。びっくりしちゃったんだ。ごめんね、南美川さん」



 姉は、そんなことを言う。



「だって――春の高校の、しかも二年三年のときのクラスメイトだったら、相当優秀なはずじゃないか。

 春は、……まあ結果的に研究者にはなれなかったけど、……そのあとの生活でいろんなことを台無しにしたけど、……そんで姉が言うのもおかしな話なんですけど、


 でも――春は、うちの家族のなかではとびきり優秀だったからね。あんな優秀な高校に行って、あんな優秀なクラスに進めて……姉と妹とは、違ったんだ。

 あなたが、そのときの、クラスメイトなら――普通に考えれば、人間未満なんかになるはずないじゃないか。それなのに、なぜ……」



 ……そんな、ことを。僕の知らない、そんなことを。

 そんな、考えたこともなかった、ことを――。

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