待って、姉ちゃん
姉ちゃんは、どんどん部屋の奥へと進んでいってしまう。いちおうはここの家主であるはずの僕よりも先に。僕はその背中を転びそうになりながら追いかけるので精いっぱいだ。
ああ、その先のワンルームには、そこには――南美川さんがいるというのに。
待って、姉ちゃん。
しかし、そんな想いは言葉にならない。
普通の家族だったら、いやごく当たり前の人間だったら、普通に声をかけられるはずの一言が、僕は姉にかけられない――。
「散らかってる、から」
僕がやっと姉ちゃんに声をかけることができたのはよ――キィ、と姉ちゃんみずから部屋のドアを開けたときだったのだ。遅い。僕はほんとうに、こういうのが、とことん遅い。
姉ちゃんは着たままのコートの茶色の背中だけをこちらに見せたまま、なにも言わない。動かない……かと思ったら、はー、とため息をついた。……僕は反射的にびくっとする。
こちらを向かないまま、姉ちゃんは額に手を当てた。
「いやー、なに、うん、ほんとこれ、この部屋……なに、これ。あのね、アンタさ。なにごとも自己申告すればいいとかってもんじゃないんだよ。いや、だって、アンタさ。うちにいたときはもうちょいマシな部屋じゃなかった? いやそんでも散らかってたけどさ、大目に見れるくらいには。ああ、あたしいまアンタと住んでなくてよかった。こんな
……言われてしまうのは、わかるけど。
昨晩の大騒ぎのぶんは、さっき南美川さんをケージに入れてまで大掃除した――でもそのあとまた、パソコンで南美川さんと動画を見たり、服を購入してオールディな段ボールは放置したままファッションショーをしてみたり、その途中でちょっとお菓子や昨晩の残りのおつまみなんかも食べてしまった、つまり片づけたのにまたこの部屋はそんな状態になっていた。
姉ちゃんが喋るうちにうなだれていくのは、けっして落ち込みなんかではなく単に僕に対する呆れや失望だろう。いや、もともと僕は姉ちゃんにそんなふうに見られている、けど――だからつまりこのひとの弟に対する感情はたぶん、そうやって右肩下がりになっていくことを止めないのだ。海と、……つまりかわいい妹とは、違って。
「っていうか、なに? これ。女物の服? うわ、派手。……うわ。っていうか、アンタなに、変な趣味とかないでしょうね――」
姉ちゃんが振り返って今度こそ僕を真正面から睨みつけた。
ギラリ、と。
バスケットの試合でボールに手を伸ばすときと同様の烈しさがその目に宿って、僕に向けられていた。僕は当然なにも言えなかった。哀れにも上位の獣に見初められてしまった弱くちっぽけな小動物のように、逃げることさえ考えつかず、ただ、呆然と、間抜けに、そこに突っ立っているだけだった。
そんなとき――。
「……わう」
小さな鳴き声が、聞こえた。……犬? いや。
犬といえば、……犬だ。人犬なんだから。
――南美川さんだ。
南美川さんは僕のベッドで僕の布団を被ったままで、頭だけを枕に覗かせていた。こんな状況なのに、どこか茶目っ気のある瞳がくるくると僕や姉ちゃんを見つめている。
姉ちゃんは大層驚いたようで、バサリ、とバッグを落としてしまった。
「えっ、なに、アンタ、えっ、その子、なによ、まさか、か、かのじょ――」
「わーう」
南美川さんはちょっとだけ微笑んでまるで甘える猫のようにそう鳴くと、三角の耳と両手の肉球を空姉ちゃんにも見えるようにぴこぴこと動かした。
もちろん僕にはわかる、南美川さんは僕を助けようとしてくれている、と。
そして、僕も持ち物を取り落としたかったくらい、心底意外なことは。
南美川さんはほんとに大層、犬ができる、ということだ――。
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