アンタ、と呼びかける
南美川さんはどこかちょっと得意げにさえ見える顔で、肉球も耳もぴこぴこさせ続けている。
姉ちゃんはしばらく南美川さんを見つめていたようだったが、やがて背中を折り曲げて、はー、と息を吐いた。
「……えっ、あっ、なんだ。人間かと思ったら人犬?」
僕は何度も何度も頷いておいた。僕がペットを飼うということだって、家族からすれば衝撃だろう――でも、このひとが、人間なんだとバレるよりはまだ、いい。
ましてや、なにがどう間違っても――このひとが高校時代の僕のいじめの首謀者だなんて、……バレてはいけない。
……僕の家族は、復讐や報復など望むほど器用ではないと僕は知っている。
でも、それでも、だ。
人間未満の相手には、いくらでも残酷なことをなしえるのだから――。
南美川さんの咄嗟の振る舞いで、助かった。姉ちゃんは胸に手を当て、はー、どきどきしたよ、などと言いながらコートを脱ぎはじめた。
「ほんと人犬ってときどきびっくりするほど人間にそっくりだよね、まあ人間未満を加工するんだから素材的にそうなんだろうけどさ。いやでも、びっくりした。そうよね、アンタに女の子とつきあえるような甲斐性があるわけない。――コートどこ掛ければいいのさ?」
僕は慌てて両手を差し出し、茶色のコートを受け取った。おろおろと壁に視線を這わせたが余りのハンガーはなかったので、とりあえず自分のコートを掛けていたハンガーをいちど下ろし、姉ちゃんのコートを掛ける。
「なによ、ペットがいるだなんて、なんも知らなかったよ。びっくりしたじゃんか。べつに動物に癒しを求めるタイプでもなかったでしょアンタ?」
「うん、そんなこと家族のだれにも言ってないからね……」
「えらそうに言うことでもないからね、それ? あー、でもびっくりした。女の子かと思ったもん。ほんとヒューマン・アニマルと人間って似すぎだよね、ちょっと気味悪いな」
南美川さんのことをいったん人間未満の存在だと認識すれば――姉は、もう南美川さんなんていないかのように、僕とふたりだけという体でしゃべりはじめるのだった。
コートを掛け終わって振り向くと姉ちゃんはテーブルの前、カーペットの上に座っていた。コートの下の服装は真っ赤な無地のセーターに、腿の部分にひよこのアップリケのあるほっそりとした黒色のジーンズ。
僕でさえも思う。……ちぐはぐな、印象を与えると。
それなりに社会人女性っぽいデザインだったコートに全身が隠れている時点では、まあ普通の社会人っぽかったけど……うん、やっぱりどこかこのひとは、いつもこうやってちぐはぐだ。僕とおなじで――。
「ん。で、なんか出して、春。飲みものとか」
「だから水道水しかないって……」
「だったら、それでいいから。喉渇いたのよ。ほんとならいまごろ家でぬくぬくしてるはずだってのにさ。ここ寄る羽目になったから」
……ここは僕の家なんだから、いくら弟とはいえパシらないでほしい。
それに。……べつに、頼んで来てもらったわけじゃない。姉ちゃんが、勝手に来たんだ。
とか心のなかでつぶやいてしまうのが、やはり、僕のいけないところ、劣ったところなのだろう――そう思いながらも姉には逆らえない。冷える廊下に出て、冷蔵庫を開けて、空いたペットボトルに入れて冷やしてあった水道水を取り出す――。
そうしていると、パタン、と軽快な足音が聞こえた。この音は、知ってる。……南美川さんがベッドから飛び降りる音。たいていいつも、僕が台所でいろいろしているあいだ待っていてもらっても、待ちきれなくなって、僕の足元まですり寄ってきてしまうときの行動、
そしていまは当然その意味は違うと、鈍い僕にもさすがにわかる。
……姉ちゃんの声が聞こえる。
「あっ、うわっ、どうした、どうしたの、飼い主がいないと気になる? ……わ、かわいいねアンタ、おめめぱっちりさんじゃん、美人さんだねえ。どしたの、そんな顔してさ……あ、笑った。……おーい、春、この仔いまアンタのとこ行くよ!」
そんなことはわかってる――南美川さんは台所に辿りついて、僕を見上げて尻尾を振った。僕の脚をがりがりと爪でひっかく。
「……わかってるよ。がんばって、ってことだろう?」
南美川さんは大きくこくりと頷いた――そして僕がワンテンポ遅れて思ったことには、……空姉ちゃんは、弟に対しても弟のペットに対しても、おなじくアンタと呼びかけるんだなってことだ。
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