空姉ちゃん
空姉ちゃんは濃いめの茶色のコートを着て、大ぶりな赤いバッグを提げていた。……仕事帰りだろうか。今日、普通の平日のはずだし――と思って、いや、平日だよな、どうだっけな、とか思うあたり、せっかくいちど就職して多少マシになった僕の社会性は確実に低下してきている。
すらりとした細身。でもそれは美容的な細さというよりは、単純に栄養が少なくて済む人間特有の、無駄もないけど余裕もない身体つきだ。健康的、ともまた少し違う。骨ばってるといった表現が近いだろうか。枝みたい……といっては、いくら家族でも失礼すぎるけど。
肌の色は、浅黒いと言うまでではないけど、ごく標準的な肌の色であろう僕なんかよりはワントーン暗めの色をしている。僕や海に比べると、姉ちゃんはいちばん母さんの肌の色を受け継いでいる。それにまあ、家族のなかで唯一スポーツをやり続けていて、いちばんアクティブだからという事情もあるのかもしれない。いちばん、太陽に当たる機会が多いだろうから。
表情はつねに最低限だ。よくひとを馬鹿にするように目を細める。
いちおう目元に紫色の化粧が施されているけど、他の化粧はずいぶん適当な印象を与える。こういうところも、姉ちゃんはちょっと雰囲気がちぐはぐなのだ。道を歩いて気づかれるってほどじゃないだろうけど……とても微妙な、それこそ僕がいちおうは弟だから、気づくことなのかもしれないけれど。
姉ちゃんは、相変わらず。
まだ二十代の半ばのはずなのに、いや、歳にかかわらず、ずっと。
枯れた樹木を思わせるような感じを、全身にたたえている。――そしてそこは、たしかに僕も似ているところなんだと、だれにも言ったことはないけど僕はずっとそう思っている。
玄関口に立った姉ちゃん。
僕がなにも言えないでいると、鼻を小さく鳴らして、舐めるように睨みつけてきた。
空姉ちゃんと会うのは今年にいちど実家に帰ってからぶりだったが、たいした変化はなさそうだった。
と、いうか、このひとはいつもそうだ。いつも――それこそ、子どものころから、いつも印象は変わらない。
しいて言えば子どものころには遥か高く見上げていたのが、いまでは僕のほうが若干、でも確実に背が高い。姉ちゃんは女性にしては背が高いほうで、僕は成人男性のほとんど平均の身長だ。でも、それでも、僕のほうが背が高くなってしまう。性別の身体的特徴ってものがあるから、まあそうなるんだけど。
いまだに、慣れない。このひとを、見下ろすのは。僕は高校二年のときにはいまの身長になって、そこからは隣に立てば姉ちゃんを見下ろす格好になってるわけだけど――本音を言えば、姉ちゃんと話をするときくらいは僕は縮こまりたいくらいなんだよな。物理的に縮むとか、あるいはしゃがみ込んで縮こまるとかして。ついでに頭と耳もなにも聞こえないように両手で押さえたい――。
……まあ、こういうことを考えてるから、姉ちゃんにもずっと呆れられ続けているのだろう。
「なに。やっぱ家にいるんじゃない」
「うん、いや、まあ、いた、けど……この部屋、どうやって……だって、姉ちゃんには教えてなくて……」
「仕事は? ――ああ、いいや、その顔、めんどい。とりあえず中に上げて。不審者認定はごめんだよ。それから事情を聞いてやる」
「え、あの、その、いま散らかってるから、すごく散らかっててほんとに姉ちゃんを上げるのには散らかりすぎてるから……整理したいし……またの機会ということには……」
「嫌だよ、アンタには信用がない。用件があるのに連絡を無視したひとの調子のいいまた今度、なんかにねーちゃん簡単に騙されないからね?」
……思わず、うう、と低く唸ってしまった。いや、ほら、その――姉の言うことは、いつでもこうしてとても正しいので。
でも、僕は、姉ちゃんを部屋に上げられずにいた。
と、いうか、こういうときってどうすればいいのか、わからない――まったく、わからない。
……わからない。こういうときには、部屋に上げなければいけないのか。家族とはいえ、他人を。でも他人でも家族だという点において、この場で家に上げないと、それは、社会性がやはり低いという認定になってしまうのだろうか――?
……それに。
いま、うちには、南美川さんがいるのに。
それでも。やはりこのまま、姉ちゃんを部屋に上げなければならないのか――。
だから、僕は棒立ちになるしかない。
すると姉ちゃんは、無理やり枝みたいなその身体をドアに滑り込ませてきた。姉ちゃんの身体で開いていたドアが、バタン、と閉まる。
……ああ。こうなってしまっては、もうここは室内だ。上がってくつもりなのだろう――僕が、なにを言おうと。
「それにねアンタ。ねーちゃん仕事帰りなのよ。茶の一杯くらい飲ませなさい。寒いでしょうよ。労わりなさい」
「……ごめん、いま、お茶切らしてて、水道水しかない……」
……昨晩南美川さんと飲みまくったお酒の残りならあるけど、なんて言えるわけない。
そんな気持ちを態度に出したつもりはないのだけど――のろのろとドアに鍵をかける僕のかたわらで茶色い革靴を脱ぐ姉ちゃんは、ぎろり、と細目でこっちを睨んできた。……僕は、また、馬鹿にされたのかもしれない。出来の悪い弟、って――。
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