崩して、崩れて

「……南美川さん。お散歩、行こうか」


 座り込んで、赤いりぼんを軽く引っ張ってみて位置を調整する――その行為のまるでついでともいうかのように、僕はそう問いかけてみた。

 ……南美川さんは耳を強張らせてこちらを振り向き、見上げる。案の定、だ。


「……行くの……? 昨日は、行かなかったのに」

「昨日行かなかったからこそ行くんだよ」

「なんだ、もうわたしは、……シュンはわたしをお散歩すること諦めてくれたと思ったのに……」


 ぱたん、と尻尾が不満そうに大きく駄円を描いた。


「南美川さんを、ってだけじゃないよ。僕の散歩にもなる。運動不足なのは、僕もいっしょだ」

「……違うもん。散歩されるのは、わたしのほうだもん」


 ますます不満そうになって、南美川さんはついと身体の向きを変えると肉球で僕の胸にすがりついてきた。

 ……お風呂で洗ってあげたばかりの清潔な香りが、近くなる。とても近い。

 きゅっ、と収縮して固くなる肉球、心なしかこういうときには普段よりも鋭くなる犬の爪は、たしかに南美川さんの意思をよくあらわしている。……懇願するような表情とおなじくらい、いや、もしかしたらそれよりもずっと。



「……だって、朝よ?」

「昨日は遊びすぎちゃったから」

「今日は散歩ももういいよねって言ってたのに」

「それは、その、ちょっと酔ってたりしたからさ」

「でも、散歩は行かなくていいって言った」

「うん、まあ、一日くらいはって」

「……行かなくていいってあなたが言ったのに」



 はらり。ぽつり。……ああ、いけない。泣かせて、しまった。



「……もう行かなくていいんだって思ったのに……」



 南美川さんがそう思うのも――よくよく自分を顧みてみれば、仕方ない。

 たとえば朝に起きる時間をきちっと順守していたみたいに、

 僕は、南美川さんを散歩に連れていく習慣もこれまで欠かさずおこなっていた。



 それなのに昨日は僕自身、酔いと、あの奇妙な高揚感にまかせて散歩が億劫になってしまった――だから今日はもういいよね南美川さん、とか、……アルコールとテンションで火照る熱を全身に感じながら、たしかに自分自身がそう言ったことはよく、覚えている。



「……ごめん。南美川さん」


 僕は、南美川さんの頭をくしゃりと撫でた。涙目をちょっとだけ細くして、南美川さんが僕の手を見上げてくる。


「そうだよね、……僕がそう言ったんだ。ごめん」

「……え、じゃあ、お散歩行かなくていいってこと?」



 ああ、そうだね、南美川さん、――ごめん。



「そうだね、今朝は、そうしようか……夜に行くことにしようか」

「えー、やだ……」


 南美川さんはそう言いながらも――これから即散歩の時間になるわけではないとわかって、安心したようだった。肉球はほんのわずか弛緩し、爪はちょっと引っ込み、耳もくたりと垂れる。僕の胸にすがりつくことをやめて、ずるずると背中から落ちて僕の膝に頭を載せる。


「うん。……夜にはね、行くからね……」


 南美川さんの背中を撫でて、

 そう言いながら、もはや僕は僕自身に自信がない、社会人になってようやく生活習慣というのはこんなにもあっけなく、崩れ落ちる、――たかが一週間で僕はこんなにダラけて遊んで、怠惰になった、――まるで引きこもりのときと同レベルだこんなん、



 ごめんね、南美川さん。

 僕はほんとうにすまないと思っている。


 あなたは、いま、犬で。

 あなたにとっていちおう形式上は恐れ多くも飼い主という立場になっている僕の判断が、……なによりも、だいじで。

 絶対で。生活すべてを、決めるもので。



 僕がぶれては、いけなかったんだ。

 一時的なものとはいえ、あなたの飼い主として。……僕は、ぶれてはいけなかったんだ。




 ……ある意味、小さな子どもとおなじことなんだ。

 それが絶対的な習慣とわかれば、嫌々ながらも守って生活しようとする。毎日歯磨きをせねばならない、とかさ。


 でも。

 それが崩れたら。ましてや、……おとなの勝手な都合や気分で変更されたら。



 そりゃ、理不尽なことだし。

 つけ入るスキもできる。

 それならやらなくっていいじゃんって、――それまでの抑圧が爆発する。




 ……そういうのと、きっと、おなじことなのに。

 南美川さんは、人間だ。もちろん。でもいまは――人犬なのに。




「……ごめんね。南美川さん」



 こればっかりは本人に謝罪してもしょうがない――わかっているのに僕は、南美川さんの全身をそっと抱きしめた。


 いまだ敷いてあるバスタオル。

 ブラインドカーテン越しでも部屋を明るくするほどには入ってくる午前の光。

 ……昨晩、遊び散らかした残骸だらけの部屋。




 南美川さんは、……わけはわからなかったかもしれないけど、やっぱりぎゅっ、と短い前足で僕の背中に力を込めてくれた。

 ……その短い前足では抱きしめるということはできない、



 でも、抱きしめようとしてくれて、それでいつも前足の長さが足りないことに気がついてこうして力を込めてくれるんだ――そんな南美川さんのために、僕はもっと、ずっと、――やるべきことがあるというのに。

 崩れて、崩して。こんなにも。ああ。――僕はいつまで、どこまで愚かなんだ?

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