それでも散歩に行かなければならない
……南美川さんを乾かしてあげるあいだ、僕はなるべく態度に出さずに気にしていることがあった、
それは――ドライヤーの隣に掛けてあるモノを使うこと、つまりは散歩道具、だから――南美川さんの、犬としての散歩のこと。
南美川さんは、お散歩を嫌がる。
外にいれば僕がほんとはどう思っていようが僕が家では一貫して彼女を人犬となった人間と扱ってようが、南美川さんは、人犬となる。
ただの人犬となる。
僕も、外ではさすがに南美川さんをここまでは人間扱いできない――南美川さんという人犬をやたらと人間扱いして、倒錯的、と倫理監査局に通報がいくのはマズすぎるし、
だから、外に散歩に行けば南美川さんはつるりとした背中を見せて、人間に比べればあまりにも短い手足でとてとてと歩いていかなければならない。りんりんと鈴の音の鳴る赤い首輪にピンク色のリードをつながれ、僕なんかの曳くそれに従って――ひたすらに、とてとて、とてとてと、進んでゆかねばならないのだ。
外で散歩をしているとよく声をかけられたりもする。
黒ずくめの格好でひとりで外を歩いていたって話しかけることなど皆無なのに、南美川さんを――というかペットを連れていると、こんなにも声をかけられる頻度が増えるのかと僕はびっくりしっぱなしだ。
たいていの声かけは、かわいいねとかいい子だねとか、そういうたぐいのこと。
小さくてかわいいね。金色の毛並みがきれいだね。尻尾を振って見上げてきていじらしいね。
おとなしくお散歩してていい子だね。知らないひとにも撫でられて噛みついたりしないでいい子だね。手を差し出せば舐めてくれるしいい子だね……。
――知っている。もちろん。僕が。それらの立ち振る舞いをするときに、ほんとうは南美川さんがどれだけの苦痛を感じているか。
全身が小さいことも、髪の毛のほかにも身体にもじゃもじゃとした部分をもっていることも、尻尾があることも、
ある種の諦めをもってしておとなしくリードの動きに従うことも、身体のどこをどう撫でられてもぐっと我慢することも、人の手が差し出されればすかさず舐めるという犬らしい行動を取ることも……。
南美川さんは、種としてのイヌではない。
人間に生まれつき、人犬の身体に堕とされた。
そして、人犬の立ち振る舞いができるように調教されただけなのだから。
本能ではなく、理性をもってして――立派な犬に、なれるように。
……そんなのは、控えめに言っても、地獄だろう。
……だから、南美川さんは散歩を嫌がる。
そりゃ、そうだ。自分自身が人犬という存在だと思い知らされる時間なんて、……少なければ少ないほど南美川さんにとってそれがよいってことなんて、とっくにわかっている。
すくなくとも僕の家のなかという大変クローズドで狭いふたりきりの空間においては、
彼女は、比較的まだ人間でいられるのだから――。
……でも、だから。
だから、なんだよな。
南美川さんは、散歩に行かなければいけない。
その大きな目的のひとつは、南美川さんの健康の維持だ。いくら人間に比べればコンパクトな人犬の身体とはいえ、一日じゅう室内でじっとしていれば深刻な運動不足になる。南美川さんのサイズだったら、やっぱり一日に一回くらいはニ十分ほどの散歩をしてあげなければいけない――僕は、オープンネットの人犬ポータルサイトからさまざまな情報を辿り、そのことも知った。
それに、加えて。
いや。……僕にとっては、むしろこちらのほうが大きな理由。
それでいて、あくまでも僕の判断の勝手な理由――。
南美川さんは、いまは人犬なのだから、……やっぱりいまは人犬らしく過ごさなくっちゃならないよね、と。
だから――ドライヤーのスイッチを止めて。
髪の毛を、くしで梳かして。
僕の不器用な手つきで、赤いりぼんを結んであげて。
すっきりしたおかげか、尻尾をぱたぱたさせてありがとうと言って満足そうに微笑んで僕を見上げてくれて。
僕は、ドライヤーの持ち手部分をぎゅっと強く握った。自分を、鼓舞するかのように。
うん、それは。
やっぱり、必要だ。
だから。
……お風呂に入ってきれいになって、すっかり乾かし終えた南美川さんに、さあ、僕は言い出そう。
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