怠惰
……まあ、それでもそうしてしまったものは仕方ない。
決めてしまったものは、いまはもうどうにもしようがない。
いちどここで僕がいいよと言ったものを、……また翻してしまうのならば、
こっちの都合とか、気分とか、……単なるそういうのを強制してしまえば、
それは、南美川さんのことを人間ではなくペットの動物扱いしているこということとなんら変わりはないから――。
……しかしまあ、と胸にすがりつく南美川さんの人間の素肌と犬の毛の体温を黑い部屋着越しに感じながら、くしゃり、と僕は後頭部のまだ湿っている髪にすこしだけ、ふれた。
それでも――マズいことには、マズいんだよな。
わがままが通るともし南美川さんが心底そう思うようになってしまったのなら。
たとえば、まだ家に来たばかりのころ、というかまだ翌日だったなあれは、
……あのときに僕の服の裾を口でつかんで、行かないでって全身で懇願して、
でも僕はそういうのはやめてねって伝えた、僕には僕の生活がある、だって僕は人間でい続けなければいけないのだから――。
……だからこそ。
慣れてもらう、必要があったのだ。
この生活では、もうずっと、……そうなるようにしてきたつもりだ。
安全だし、安心でもある。
こちらに媚びたりすがりつかなくても、ふつうに起きて食べて寝ることができる。生きることが、――すくなくとも生きものとして最低限生存することなら、できる。
それはいままでの場所では違ったのかもしれない。そんな当たり前のようなことさえ、脅かされてきたのだろう。
でも、僕と、これからいるときにはそうではない。
そうでは、ないんだと――期間にすれば数か月にもならない期間だけど、でも僕は南美川さんといっしょに、ともに、……それこそ小恥ずかしい言い方だけど二人三脚として、そういうのが守られてしかるべき彼女にとっての人間らしい生活を構築してきたつもりなのに、それなのに――。
……犬として扱うならばペットとの生活だけど、人間として思ってみれば共同生活だ。
共同生活には、まあ、そりゃいろいろなことがある。
なにより僕には仕事や社会的人間のひとりとしてのいちおうの立場ややるべきことが、こうしてみれば、意外にもそれなりにあることがわかった。
たとえばそれは、朝に起きて会社に行くこと。会社で仕事をすること。帰り道に簡単な食糧や生活必需品を買ってくること。帰って、トイレットペーパーや洗剤が切れていたなら帰り道に買ってきたそれらを補給して、夕ご飯を食べて、適当にくつろいだら、きちんとシャワーを浴びて寝る。何日かに一度はここに洗濯も入るし、連休前なら買い物の時間や規模はちょっと大きめのものになる。
……僕なんてなんもしてないとずっと思っていたけれど、なるほどたしかに――南美川さんに二十四時間かまってはられない生活なのも、たしかだった。
南美川さんがたとえどんなに、不安なの、嫌なの、いっしょにいてと言ったところで、僕はずっとそうはできない。
仕事も生活もあるからだ。そういうことをしなければ、――僕はあっけなく人間未満になってしまう。
そういうときにだいじなのはやはり、安全、安心、……だからつまり僕との信頼……。
言ったことは、実行するようにするし。
多少嫌でも、億劫でも、お互い習慣や約束は守る。
たとえばそれは、朝は支度の邪魔をしないでもらうとか、夜にはパソコンを使わせてあげるとか、そしてときには帰ってきたら頭を撫でてあげるから……といったものの場合も、あったけど。
――習慣のひとつが散歩だったのだ。
南美川さんにはなるべく義務は負わせたくなかったけど、……でもなんもないのも違うだろって思っていた。
なにより。
ほんとうは人間でも、――いまの南美川さんは、犬なのだ。
南美川さんは、お散歩が嫌いだ。
わたしを人間に戻してくれるならどうしてわたしを犬としてお散歩に連れていくの――もう、いくどとなく、訊かれたけれど。……それは、まあ、なんども説明はしようと試みたけど、まあ僕の語彙力や表現力じゃ……まだうまいこと、説明しきれてないんだよな。
……それに、じつは、ここのところは南美川さんにすべてを伝える必要性も正直僕は感じていない――もちろんそんなことは言えないけど、ね。
……だから。
やっとできあがってきた、習慣を。
……僕が、ほかならぬ僕自身が、だれかと飲む酒とだれかとプレイするゲームの楽しさに、酔って、酔って酔ってガラにもなく酔っぱらって、その結果として散歩はめんどいんだよなあなんて本音がたしかに、たしかにあんなかたちで漏れ出てしまって、もちろん南美川さんは散歩が嫌いなわけだから、嬉しかったろう、休暇中は僕が散歩をテキトーに済ませるんだと思ったかもしれない、それで南美川さんのほうもアルコールを入れてゲームを楽しんであんなにけらけら笑ってはしゃいだなかでもその発言は、覚えていて、だから眠って起きて今朝になってもそのつもりだった、――南美川さんはなにも悪くない、どう考えても、悪いのは、僕だ。
そんなふうに考えているとさぞかし表情も陰鬱なのだろう。僕のことだから、そりゃもうさぞかし。
だからだろうか――僕の胸の上にいる南美川さんは、こくり、と至近距離で首を傾げてきた。
ああ、このひとには僕の稚拙な感情なんかすぐにわかってしまうんだからな――高校時代だったらこの瞬間、股間あたりに蹴りのひとつでも入れられていただろうか。
……そして、僕がかろうじて言うことといえば。
「……あんまり、怠惰な生活にはしたくないよねえ」
そんなことだけ、問題の上っ面だけロボットみたいに撫でてしかも南美川さんに伝える気もなくぶん投げたようなそれこそ勝手なひとりごとで、しかも微笑みの真似さえうまくできなくて、天井を仰ぐのだから――僕は、ほんとに、いつまで経ってもどこまでもどうしようもない人間なんだろう。――僕というのはいったいどこまで、だいじなことを疎かにして崩して、……呑み込むふりをして目を逸らし続けていれば気が済むのだろうか?
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