朝のお風呂(2)黒Tシャツから滴る雫

 きれいに洗い終えた南美川さんを先にお風呂から出した。



 小さな身体を、どぼんと湯船から持ち上げて。

 だいじに、だいじに抱えたまま、風呂場を出る。

 濡れ細る、……犬の部分もいっしょに、洗面所のお風呂マットの上でバスタオルでぐしゃぐしゃとひと通り拭き上げる。丁寧に、……この動作はほんとうに、丁寧に。なにせ濡れてしまっているところが残ったら、気持ち悪く、かつ南美川さんはその身体を柔らかいところにこすりつけるくらいのことしか自分ではできないのだから――。


 ……そして、いい? と南美川さんに拭き具合を尋ねて、……いいわ、と答えてくれたら、

 その犬の耳がじっとりと湿りつつもピンと直立することを、僕は軽く引っ張ってたしかめて――それから、南美川さんをお風呂場の外に出す。

 ドアを開けて、南美川さんを廊下に出して、……じゃあ、いい子でちょっと待っててね、と声をかける。

 最初のうちはひとりになることをとても嫌がっていたけれど、いまでは慣れたものだ。うん、と尻尾をふりふりしてみせる。ちょっとさみしそうではあるけれど――僕の言うことを聞いてくれて、僕のことを待ってくれる、という、それはたしかな意思表示でも、ある。



「……じゃあ、すぐに、またね」

 僕はそう言うと立ち上がり、……洗面所と廊下を隔てるドアに、手をかけた。

 僕を見上げる南美川さんのどこか澄んだ瞳は、ドアを閉め切るまで僕を無垢に追いかけてくる。



 ……たったっ、と犬の四つの足が立てる音が開け放したままのリビングのドア部分を抜けて、たしかにリビングに消えていくことを耳でたしかめたのち、……僕は、そっと風呂場のドアを閉めた。


 ……ふう、と大きなため息を吐いた。

 南美川さんの前ではけっして滲まない、……いや滲ませまいとしている苛立ちにも似たなにかが、いま洗面所にひとりになったら、やっぱりこうやって現れる。


 慣れてきた。それも、たしかだ。

 それなのに――湧き上がる倦怠にも似た疲労と、根底的な慣れなさは、この期に及んでも変わらない。


 ……いまごろはたぶん、リビングにあらかじめ用意してあげているぱりぱりに乾いた気持ちいいバスタオルのうえで、ごろごろして、残った湿り気を取ってくれているはずだ。

 いつも通りに。

 ……あとで、髪の毛をちゃんと乾かしてあげよう。自分ひとりではけっして使うはずもなかったドライヤーさえ、いまの僕の家にはあるのだから。用意したのだ、買ったのだ、……南美川さんのために、当然。



 僕はしばらく扉を閉めた体勢でぼんやりしていた。

 ぼんやりと、ただ洗面台のオールディな備え付けの鏡に映る自分自身を見ていた。

 水着はともかく、もともと防水仕様でもなんでもない黒いTシャツは、風呂場のお湯をぎっしりと吸って重たく……ぽた、ぽたぽたと、いまも雫が垂れ続けている。……じっさい、重い。ほんとうに……。



 南美川さんのことは、今朝もきれいに洗い終えてあげた、……はずだ。

 家に来たばかりの最初のころは身をよじって嫌がった、……あるいは過敏になにか感じてしまっていたけれど、

 南美川さんはいまでは、胸でも下半身でも恥ずかしそうでも汚れをそのままにしておくくらいならとこっちに曝け出してくれる……。




 ――それなのに、僕は。

 僕のほうからは、……まだ。




「……いや」



 小さく呟いた声は、やけにぼそりと響いた。

 いいのだ。これで、いいのだ。……南美川さんに、見せるようなものではない。

 あるいは、見せられるようなモンでも――。





『隠すほどのモンかよ!』





 ――もういちど、重いため息を吐いた。



 この期に及んでも、南美川さんとの距離が、こんな、……こんなことになっても、

 僕のなかでの南美川幸奈という存在は――なにせ高校時代から大きくて、大きすぎて、ぐちゃぐちゃで、もうほんとにぐちゃぐちゃで、最初は人間的の尊厳的に犯されたのはもちろん僕のほうだろうけど、……そのあと、引きこもりの時代、勉強以外はなんにもなかったひとりぼっちの大学時代、そして相変わらず自信もないし素肌も曝け出せない社会人となって、……そういう時間を経ていくうちに、僕だって南美川幸奈のことをきっと、殺したいほど憎んで、犯したいほどこいねがって、もうどっちが犯されてるんだか犯してるんだか、月でもあり太陽でもあり、ずっと、ずっと、――つきまとった、




 だから僕は、そう、この期に及んだって、




「……まあ、な」




 南美川さんの前では、服を脱げない。

 水着は、膝から下が露出されてしまっている。そのことだけだって、ほんとうは――震え上がるほど、怖い。



 もちろんそれは他者に対してもだし、……そもそも顔と手首以降以外の身体のパーツを僕は外で曝すことがけっしてできないのだけれど、



 ……ましてや、南美川幸奈なのだ。



「……見せられない、よな。そりゃ、さ」




 ――ごめん。南美川さん。

 そうは思うけど――だって、南美川さんは、……南美川幸奈なのだから……。




「――ごめん」



 この距離では聞こえないはずなのに勝手に謝って、僕はきょうも、洗面所に続くドアをガチャリと閉めた。

 ……きょうも、この鍵を開け放すままにしておくことは、できなかった。

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