朝のお風呂(1)重たいものは、


「シュン。きょうは、なにして遊ぶの?」



 湯だって、赤く染まる頬。そして、おでこ。

 濡れた三角の耳からはぽたぽたと雫が垂れる。おんなじような色の髪の毛からも、雫が滴り溢れている。

 湯船から、頭だけ出した格好だ。……もちろん、南美川さんひとりだとずぶずぶと沈んでしまうから、南美川さんの正面でしゃがみ込むように湯船に身体を落としている僕が、抱きかかえているのだけれど。


 南美川さんはいつも通りの人犬としての裸だけど、僕は黒い長袖のTシャツと高校のときに使った紺色の水着を穿いている。……黒色が、湯船に溜まった透明なお湯にゆらゆらとゆらめく。



 僕は、南美川さんをお風呂に入れてあげていた。

 歯磨きをしたら、すぐに。



 昨日は眠っちゃったんだし、今日は朝だし、お風呂めんどくさい、今日くらいはもういいじゃないって駄々をこねる南美川さんをほぼほぼ無理やり抱きかかえてきたのは――じっさい僕もこのままだと、ああじゃあ今日はもういいかな、って言ってしまうのが怖かったからだ。


 ……もともと、南美川さんは入れてもらうお風呂を嫌がるって、そのことももちろんあるんだけど、


 なにせ遊び呆ける毎日。

 娯楽というものには僕はいままでさほど興味がなかったけど、……なにせ大学まで遊びの経験が豊富な南美川さんにいろいろと教わってみれば、たしかにこの世にはたくさんの遊びというものがあった――そんなのはただ優秀者たちの宴だと思っていたけれど、なるほどあんがい自分がやってみるがわになればこれはこれで、おもしろいのだ。



 でも、だから同時にマズいなとも思ってたんじゃないか。

 南美川さんと家で過ごすとき、……かならず夜に南美川さんのぶんも自分のぶんも、お風呂も済ませて歯磨きもして、それから眠るのが一種習慣となっていたのに、

 その習慣が、昨晩の大騒ぎからの寝落ちでついに崩れてしまった――休暇をもらってちょうど一週間目で崩れてしまったのだ、




 僕は……人間というものが、そして人間的な生活というものが、かくもあっけなく崩れることをもういちど知った。

 しかし、恐ろしい。恐ろしいのだ。大学時代から会社員になるに至るまで、コツコツともういちど積み上げてきたはずの生活というシロモノ――それは、こんなにもあっけなく、……ふたたび崩れようとしている。




 ……だから、せめてと。

 朝にはなってしまったけど、南美川さんのぶんも自分のぶんも、歯磨きをして――お風呂の習慣だって、実行する。






 ……南美川さんをお風呂に入れてあげること自体は、再会してからのしばらくの日々で慣れていた。

 だから今朝も、いつも通り。いつも通りに。手順を踏んで――あくまでも、ただそれだけの流れ作業のように。




 ……風呂場の椅子には座らせないで、タイルの上に広めのバスタオルを置いたところにおすわりしてもらって、僕は手を伸ばしてシャワーを取る、まずは頭からその犬耳もいっしょくたにぬるめのお湯をかけていく、


 ……耳はどうも敏感なのかシャワーをかけるといつもびくりと大きく動く、最初はぬるま湯をかけたまま優しく頭をほぐすように撫でてあげて、

 犬の耳がくったりとしながらも少し硬さを持ち直してきたらシャンプーの頃合いだ、……わざわざオープンネットショッピングで購入した、それまで自分で使っていたものより数倍高価な、南美川さんがずっと愛用していたというブランドのシャンプーを心持ち多めに手に取って、マシュマロみたいに泡立てるのよという南美川さんのアドバイス通りマシュマロの形状を意識して手のひらのうえで泡立てる、そして、そっ、とその後頭部の耳と耳のあいだに乗せる、……あとは、わしゃわしゃ、洗っていく、


 頭が済んだら次は身体だ、

 これは、もう南美川さんに協力してもらうしかない――いつものように。あるいは、家に来たばかりの最初の夜、雨にずぶ濡れなときにちゃんとこうさんのポーズをしてくれたように。

 背中も、お腹も。うつぶせも、仰向けも。……それぞれのポーズを取ってもらいながら、とても柔らかい上質なタオルで、すこしずつ、すこしずつ、……願わくはすべての汚れをこのひとの身体から取り去ってしまいたい、という気持ちで、洗い上げていく。


 ただあのときと決定的に違うのは――南美川さんはもう恥ずかしくて悔しくて仕方ないといった表情や素振りを見せない、

 恥ずかしさは残っているけれど――たとえばバスタオルのうえに仰向けになって全身を僕に晒していたって、ちょっと目が合えば、……はにかんで、照れたように笑ってくれる。そういうところは、もちろん最初とは決定的に異なる――。



 もちろん、最初はどきどきした。そりゃいまもだけど、ちょっといまとは比較にはならないほど。

 つるんとした人間の素肌と、肘と膝と頭とお尻に断面のようにふいにあらわれるケモノの毛皮、……そういうものひとつひとつに、たまらない気持ちと衝動ともう自分でもよくわからないぐっちゃぐちゃのなにかを、めまいがするほどに覚えた、

 もう服を着ないのが、習慣であるはずなのに――むしろだからなのだろうか、……お風呂で全身を濡らしてあったかくなる南美川さんは、どうも、目を逸らしたくなるくらいに――僕の欲望に直撃した。




 ……けど、日常としてやってゆけば。

 そんなすさまじいことにさえ、いずれはだんだん慣れてくるものだ――。





「……ね。シュン。今日は、なにしようか」



 湯船で、南美川さんはこっちを見上げる。……いっそどこか必死なように見える。



「いつも、遊んでるもんね……毎日、楽しいことしてるもんね……」

「……そうだね」

「……ねえ、そういえばシュンは、お洋服着てて重たくないの……?」




 重いさ、と言うのを飲み込んで代わりに僕は苦笑しておいた。

 下に穿いてる水着はともかく、Tシャツはほんらい水に浸かることなど想定してないふつうのものだ、




 ただ――ほんとうに重いのは、身体ではなくて心のほう。




「……今日も、いっぱい遊ぼうね」




 南美川さんを抱きかかえればちゃぷりと音がした、……このひとは、家の浅いこんな湯船でさえも僕が抱きかかえなかったら即座に頭まで沈んで溺れて終わってしまうのだろう、

 抱きかかえたあと、鼻と口がちゃんと空気に触れてるか僕は細まったままの目で確認して――南美川さんが口をぱくぱくさせてちゃんと呼吸していることを確認して、安心した。


 僕の視線に気がつくと、……なあに? とでも言いたげに微笑む。

 ちょっと、困ったような。気遣ってくれている、ような。同年代の、おとなの、とても魅力的で、人間的な女性でもあるはずのこのひと――。




「いっしょに、遊ぼう……南美川さん」




 ……あなたがここまですべてを曝け出さねばいけないのに、相変わらず僕は全身を隠してしまう、お風呂で服を着るだなんて不自然な方法でもあなたにさえも素肌をいまだに見せられない、そんな心が――僕は、とっても、重たいんだよ。

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