薄暗い部屋での朝の習慣

 僕はあくびをしながらベッドから起き上がった。南美川さんは、安らかな二度寝に入ったらしい。すうすう、すうすう寝息を立てて身体を縮めて寝ているので、その小さな身体にそっと毛布を被せておいた。


 立ち上がると、背伸びをする。これは会社のあるときでも休みのときでも、いつも通り。

 外はどうやら晴れていそうだ。ブラインドカーテンの隙間から、眩しい光が漏れてきている。

 ブラインドカーテンを開けるかどうかちょっと悩んで、……やっぱり、開けなかった。


 朝の光が僕があまり得意じゃないというのもあるけれど……なんとなく、ここ一週間、ブラインドカーテンを開け放つのはもう少し昼と呼ばれる時間帯に近づいてからだった。

 それに――南美川さん、いままだ寝てるしね。……家に戻ってきてから、南美川さんはよく眠るようになった。安心しているのかもしれないし、……小さな人犬の身体では、なんだかんだ本格的な冬はキツいのかもしれない。



 眠っている南美川さんの邪魔にならないよう、僕は今朝もなるべく音を経てずに行動する。


 廊下部分につながる扉を開けて、まずトイレに行き、本来は台所部分のシンクで手を洗い、三日に一度のペースで取り換えているガーゼタオルで手を拭く。……実家ではタオルは母さんがかならず一日に一度取り換えていたけれど、あれはすごいことだったんだなって僕はひとり暮らしになってからはじめて知った。


 同じシンクの蛇口から水を出し、コップ一杯ぶんの水を飲む。一気に飲み干すと、はー、と息をついた。この時期の水は冷えていて、目覚めるときにちょうどいい。それに、味もいい。滑らかで透き通っていて、……旧時代では水が汚染されていただなんて信じられないほどだ。さすがに現代の浄水技術は味の質までも保障しているのだ――そこまで考えて僕はふと、峰岸くんが浄水の仕事をしているんだという事実を思い出して、ほんの数秒だけコップの表面のガラスを意味もなくしげしげと見つめた。


 そしてその次は洗面台に行き、自分の歯ブラシを手に取った。濃いブルーの歯ブラシ。とくに、意味はない。近場のスーパーマーケットでいちばん安いのがこのシリーズで、だいたいいつもこの色が売れ残っているし、なにより生活のそういう買い物で迷わないように買うならこれと僕はずっと決めている。

 歯磨き粉を出して、しゃこしゃこと磨きはじめた。……鏡に映る僕の顔はけっこう酷い。昨夜も昨夜とて遅くまで南美川さんとはしゃいでいたってこともあったんだろうけど、なんというか……ちょっとでも気を抜くと、あっというまに引きこもりだったときの僕とおんなじ雰囲気になってしまいそうだ。

 歯ブラシを動かしながら顎の角度をちょいちょいと変えて、自分の顔をよくよく見てみた。仕事がないと思うとどうしても髭を剃る頻度や剃るときの精度が、落ちる。ぼつぼつしているので手を当ててみると、やっぱりだいぶワイルドなことになってしまっている。南美川さんが起きる前に剃ろうかな、と思った……面倒といえば面倒だけど、ほら、……そういうのをたかだか一週間でめんどくさいと思いはじめてしまうところが、僕はほんとはあんまり社会力しゃかいりょくがないんだよ。


 ふっと目を風呂場の扉にやれば、中途半端に開いていた。そうだ……昨晩はしかも、シャワーも浴びずに寝てしまったな。

 冬とはいえ、さすがに毎日その習慣は保とうと思っていたのに……やっぱり、こうやって、なし崩し的に崩れていくものだ。

 でも、まあ……あとで、南美川さんだけは洗ってあげなくちゃな。お風呂は嫌がるけど――僕は、南美川さんには清潔でいてほしい。



「……ってことは、僕も清潔にすべきなんだろうなあ、相手に求めることが自分ではできてないっていうのはアンフェア――」



 歯を磨きながらなんとなくひとりごちていたら――「なにが?」と、無邪気な声がした。

 つんつん、と僕の下半身のパジャマの裾を細くて小さな犬の前足が、つついている。




 にんまり、と。

 なにかを期待するように笑って僕を見上げて、尻尾をぱたぱた振ってる南美川さんが、いた。



「おはよ、シュン」

「ああ、南美川さん。おはよう。……起きたんだね」

「だって、気づいたらシュンがいなかったんだもの」

「よく寝てたからさ。起こしちゃ、悪いと思って」

「うん。でも、わたしも起きたわ」



 いーっ、と歯を見せて笑ってくる、ああ、今朝も、……眩しい。




 ……怠惰な生活にはすぐに慣れるくせに、それに僕だっていいかげん南美川さんとの距離がこんなことになっているのに、

 慣れないなあ、……表面上は多少慣れたところでやっぱり本質的にはいつまでも慣れてないんだな、




 南美川さんが――僕に対して、こんなにも嬉しそうで眩しそうな信頼を全力で、僕なんかに、……僕なんかだけに、向けてくれるということに。




 だから、僕はなにかを誤魔化すように鏡を見つめて歯磨きを仕上げはじめた。

 おおむね仕上がったところで、

 うがい用の小さなコップを取って、うがいまで済ませる。


 ……南美川さんはそのあいだ、僕の下半身のパジャマになんどもなんども手を伸ばして、楽しそうに遊んでいたようだ。

 僕が洗面台のタオルで口を拭いて見下ろすと、尻尾を振る速度を倍速くらいにしてくる。



「……ん。じゃあ南美川さんも、歯磨きする?」

「うんっ」




 まあ、もちろん――その歯を磨くのは、僕なのだが。

 南美川さんは自分ではもう歯磨きができない、……できるとすれば、人犬用の歯磨きガムを噛んでもらうことだけど、それくらいなら僕は自分の手で南美川さんに人間的な歯磨きを、施してあげるのだ――。

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