朝の歯磨き(1)ごめんなさい、南美川さん
部屋にあるガラスのテーブルの前で、床に置く背の低いソファに南美川さんをお座りの体勢で座らせて、
僕自身はカーペットの上に直に座ってあぐらをかいた体勢で、背をだいぶかがめてピンク色の歯ブラシを手に握っていた、……もちろん、南美川さん専用の歯ブラシだ。僕の安物の濃いブルーのものとは違って、取っ手が赤いハート型になっていて大層かわいらしい。
そして、ちょっとだけ短くて角度もほんの少しだけ曲がっている。ほんとうはこれは、赤ちゃんの歯を磨くとき用の歯ブラシで――でもそんなことをわざわざ南美川さんに言う必要もないし、南美川さんもそこまでのことは、……訊いてこなかったのだし。
僕はよし、と右腕をまくると、尻尾をいまもぱたぱたと振って待っている南美川さんにお願いした。
「……それじゃ、口を大きく開けてください」
あがっ、と南美川さんは素直に口を開けてくれた。……もう、こんな動作さえ堂に入ったものだ。
「……うん。いいね。いい子だよ……」
僕は語りかけながら、そっ、と歯ブラシをその口に入れた。
いつも思うんだけど、こんなに口を顔いっぱいってほどに開けているのに、やっぱり、南美川さんの口は、小さくて――でもそんなの男女で違ったりするのだろうか、それとも僕の口だってほんとはこんなに小さなモノなのだろうか、……でもどうにもそうも思えなくて、僕は――自分自身を磨くときには小枝のごとく思っている歯ブラシだって、この口にとってはあんまりにも太くて大きすぎるんじゃないかなんて、突っ込むことをこんなにも恐れて、……いつもそろそろと慎重に入れ込んでしまう。
……でも、じっさい、怖いのだ。
もし、僕が間違えてこのひとの口のなかを傷つけてしまったら。
あるいは、勢い余って喉の奥なんかに突っ込んでしまって、咳き込んだりとか、……呼吸がどうにかなってしまったら……。
どうにも、できない。
犬のために、救急車は来てくれない。
連れて行く先は、動物病院しかない。
僕にとってはこんなにも人間でも、――いったん部屋の外に出れば、南美川さんは犬でしかない。
だから、だいじに扱うのだ。
たいせつに。たいせつに……僕がちょっと力を入れただけで、すべてが壊れてしまいそうなほど繊細な南美川さん。
繊細な身体と、状況と、……心をもった、南美川幸奈……。
口を大きく開けたまま、まだなの? と視線でこのひとが問いかけてきたから、僕は自分がまたしてもぼんやりしていたことを知った。
ハッとして、ごめん、ごめんね、と語りかけながら、ごくりと唾を飲んで歯ブラシを慎重すぎるほど慎重に、
このひとが僕に向けて全信頼してこんなにも大きく開けてくれている口のなかで、動かしはじめた……。
歯ブラシを握っているとはいえ、右手をそのまま口に突っ込んでいるのだ。
もちろん僕は南美川さんの歯ブラシを持ってくるときに、石鹸を使って入念に手は洗っているけれども。
……温かい。生温かくもあるし、……それでいてじんじんと熱をもっているところというのもある、他人の、いや、……南美川さんの口のなかは。
口を入れれば、一瞬で湿る。口のなかにもともと存在する湿り気と粘り気と、……南美川さんの呼吸で、僕の指はすぐに口内と同質のものとなるのだ。ああ、濡れていく、……きょうも歯磨きをするために僕の右手はこんなにも、このひとの口のなかで濡れていく、
ああ。きょうも。――躊躇する。
南美川さんの、――あの南美川幸奈の口のなかなんかに、僕の、……僕なんかの汚い手を入れ込んでしまっている、という事実。
それはどうにもむず痒さにも似ている。いっそいたたまれない、とも言えるかもしれない。
僕の手だなんて汚らわしいモノ、
……高校時代はずっと床をついていた底辺の両手、
そんな汚いモノが、ほんらい神聖でさえあるはずのこのひとの口のなかに入り込んでいるだなんていうことは――
……慣れない。
僕は、いったいなにをしているんだろうかと、
でも、そう思いながらも――いま現実には僕はこのひとの歯磨きを済ませなければいけない、
……ほら、だんだん唾液が垂れてくる、このままではよだれになってしまう、いけない、……南美川さんだってそんなことは嬉しいわけではないだろう。
「……ちょっと、待っててね……我慢してね」
……しゃこ、と左の上の奥歯から磨きはじめる。いつも通りに。
しゃこしゃこ、……しゃこ、と、丁寧に。
虫歯に、病気に、ならないように。
つねに、清潔でいるように。
このひとにふさわしい、衛生環境であるように……。
……強いてその口のなかだけを覗き込むようにしている僕は、こんなに、こんなに、……罪悪感めいたものをとても感じる、
「……ごめんね……」
ああ、ほらだからほら、気がついたら僕はきょうも、――南美川さんに、謝ってしまっているのだ。
心の底から。
――ごめんなさい。南美川さん。
このひとにとっての、絶対的下位者だったときとまったくおんなじような気持ちをもってして――。
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