第八章(下)高校の同級生をもとに戻すのに、必要なこと。
アラームの前に目覚めなかった朝
ジリリリリ、と目覚まし時計の音を模したアラームが鳴った。
……聞こえてしまったから、僕はきょうこそついに怠惰に朝を迎えたことを知る。
橘さんや杉田先輩や、僕は面識じたいはそうないけれども対Necoアクセスプロセス社のとても偉いかたがた、それにネネさんやこれも会ったことはないけれど薬の共同開発者だというカナさん、……いろんなひとに、気遣ってもらって、たくさんいろんな配慮や調整をしてもらって、
……決定をするために、いま僕は、休暇を得ている。
もちろん建前としてはそうだし、本質としてもいまはその休暇だ、
なんだけど、わかってはいるんだけど――。
ジリリリリリリ、と枕元でやかましく鳴り続けるスマホ端末に、んん、と声を上げながら僕は手を伸ばした。
アラームを、止める。午前、九時。わかっていたけど、……ついに僕の起床時間はナチュラルにここまで遅れてしまったか。
会社が、午前十時から始業。
逆算して、家を出るのは午前九時。
そこからさらに支度の時間を逆算するから、会社のある日はかならず午前八時には起きていた。
休みの日でもまあ、どんなに遅くても午前九時までには起きることにしてたし……というかそもそも、始業が遅いぶん終業も遅くて、眠りも浅くていまだに悪夢にうなされる夜もある僕としては、日付が変わると同時に明かりを消してもすぐに休めない夜も遅かった、
だいたい実質いつも寝つけたのは深夜の一時を過ぎたあたりだろう――七時間睡眠程度で、まあ、ちょうどよかったというか。
裏を返して言えば、休日の前日にどんなに夜更かしをして夜の一時くらいに明かりを消したとしても、そしてアラームがなかったとしても、起床するのはどんなに遅くとも午前九時前――だった、はずなのだが。
「……ん……」
ちょっとだけすがるような気持ちで小さなモニターを見たけど時刻はやっぱり設定した通りの午前九時一分、あ、いや、いまちょうど二分に切り替わったな、――そうかもったのは六日間だけだった、
つまり、アラームがなくともふだんのように起きられるのはたった六日間だけだった――保険としてかけていたはずの九時一分のアラームは、けさは容赦なく僕を起こした。
いや、僕だけではない。
僕と――たぶん、いつのまにやらあおむけの僕のお腹の上に腹ばいになってる、南美川さんも。
どうやら、南美川さんも眠っていたようだ。……でもさきほどのアラームの音には気がついたのだろう、金色の柴犬の耳が、ぴくり、ぴくりと音を拾っている。そんな動きをしている。むーう、と長めの不機嫌そうな声も、上がる。
……昨夜は、眠たそうなままのそのそとケージに入ったはずだ。
「……南美川さん……いつのまに、来たの、きょうは……」
僕自身がまだ眠たいなかでも、問いかけながら僕は両腕を南美川さんの背中に回した。……冷たくなってしまっている。そりゃ、そうだ。もう、季節はこのあいだ、……十二月となって完全に冬と言えるようになってきた。
もちろん、素肌の多くを晒す南美川さんのことを考えて寝ているときでも暖房はつけっぱなしだけど――僕のこの部屋は暖房の効きがとくに明け方はそんなによくないみたいなんだ、……だから南美川さんの毛皮のところはともかく素肌はすっかり冷たくなってしまっているのだ。
「こっち来るなら、布団のなかに入ってねって、言ったのに……」
うちに来てからずっと、南美川さんには人犬用のケージのなかで過ごしてもらっていた。
そのなかだったら、ふかふかの毛布で満たしたし暖房も僕のベッドよりはうまく効く角度に設定してある。
だから、そのなかでは寒くはないはず。けど――。
……むにゃむにゃと、南美川さんが目を閉じたまま言いわけすることには。
「……こっち、来たかったんだもん」
そして、こてん、と僕の腹の上に片頬を乗っけた。甘えるように、いや……甘えている。
僕は、僕なんかに南美川幸奈が甘えてくるという事実を、もう受け入れることにしたのだ。
「……いいんでしょ? わたし、ケージからいつでも出てきていいって、言ったのは、シュンよ……」
「そりゃ、いいとは言ったけど」
これも、僕が僕として決めたこと。南美川さんは、……人間性をすこしずつでも取り戻してきたんだから、……南美川さんのことをもう信用して、この部屋のなかだったらいつでも自由に動きまわれるように、もう、……ケージに閉じ込めて鍵をしたりとかそういうことはしないようにしようって、僕はそう決めた、……自分のことと南美川さんのことを、もうすこしだけ信じてみることにした。
「言ったけど……南美川さんがそっちで寝るつもりで僕はベッドもケージも用意したんだよ」
「なんで、ケージじゃなきゃ、駄目なのお。やっぱり……だめなの?」
「……駄目じゃないけどさ……」
僕はすっかり参ってしまって、半目を開けて上体を起こして、南美川さんの身体を抱えるように隣にもってきた。
南美川さんはちょっとだけ目を開けて、とろんとした目で僕を見上げている。
「毛布の上だと風邪引くよっていつも言ってるじゃない。……南美川さん、風邪引いたら大変なんだからさ。毛布は、かぶってくださいよ」
現状では、ヒューマン・アニマルにも対応している動物病院に連れてかねばならない――そして、それは僕たちにとって、……どれだけ心のコストとリスクが掛かることか。
「……僕といっしょに、寝たいってことでいいの?」
南美川さんは恥ずかしそうにこくりとうなずいた。
いまさら恥ずかしそうにされるだなんて思ってなかったから――不意うちで、これでは僕のほうまで恥ずかしくなってしまうじゃないか。
……十二月、上旬。
僕が会社から長い長い休暇をもらって、検査入院でも問題がなくて、南美川さんを連れて自宅の部屋に戻ってきてからちょうど一週め。
冬の本番も、はじまった。……今年の初雪はいつだろうと、南美川さんには言わないけれど僕はこっそりそう思いはじめている。雪は、あのとき、――僕のいじめにも、つかわれたから。
でも、……犬は雪の上を駆けまわるのよと南美川さんはよくわからないことを言っていた、猫はこたつなんだって、なにそれいまの社会の痛烈な風刺? って僕が思わず尋ねたら――違うわよ、って南美川さんはなんだかちょっと顔を火照らせて困っていたのだ、あれは、……なんだったんだろう。
……なには、ともあれ。
しんしんと――寒さは、堪えるようになってきていた。
ブラインドカーテンを閉め切ったままだから、朝なのに妙に薄暗い単身者用のアパートで。
掃除はしてるんだけど、なんだか妙に埃っぽいこの部屋で。
僕は、形式上はひとり暮らしを続けながら。
たしかに、――実質的なふたり暮らしをはじめても、いる。
毎日、毎日、……家のなかで。
散歩以外は、家のなかで。
楽しいことばかり、……あるいは楽しそうなことばかり、不自然なくらいにふたりではしゃいで試している、……ほらちょうどいまも床にはきのうふたりで夜遅くまで遊びすぎたカラフルな身体感覚型アクティブゲームの出しっぱなしのマットと、食べ散らかしたおつまみやらお菓子やらの残骸たち。
一見、単なる怠惰――しかし当然この休暇には意味がある、
選択のことは――まだ、彼女と、いちどたりとも語っていない。
そう。いちどたりとも。どんなかたちでも。――まったく、まだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます