こっそりと向かう先は、

 僕の膝の上で、南美川さんはすーすーと静かな寝息を立てている――と思えば、ときおり強くうめいたりもするのだけど。



 僕の手をくわえて、嗚咽を抑えて泣き続けて……南美川さんはそのまま、泣き疲れて眠ってしまった。

 やがて、ぐずぐずしながら赤ちゃんみたいに横たわって。最後まで僕の手をくわえようとしてたけど、眠たそうだったから僕はそっと自分の意思でその手を抜いてあげた。南美川さんはそしてまた最後まで目を開けて僕を見ようとしていたけど、……いちど目を閉じたら、そのまま、……眠りについたみたいだ。



 ……眠りすぎるのも、また犬らしい。なんかそういうことらしいって、……僕はほかでもない、南美川さんにそう聞いたのだ。

 犬っていうのは、……たくさん、よく眠るものなんだって。

 飼い主にかまわれる以外の仕事は犬にはなく、――また、要は生きがいだってほかにはないわけだから、必然的に暇な時間というのが犬には膨大にある。

 だから犬は、……眠り、眠り、眠り続けて、

 うとうとして、……飼い主にかまわれたら嬉しくて、尻尾を振って、そのときにははしゃいで遊んでもらって、やがてはまた人間である飼い主は人間の用で自身のもとを去っていく、


 たしかに、種としてのイヌを思い浮かべれば、……ふさふさした背中を見せてすやすやと眠っているところは、動物には詳しくない僕でさえもなんとなくイメージが見える。

 それとおんなじことなのよって、南美川さんは言っていたけど――




 ……でも、それは。

 僕はそもそも生き物のことにも詳しくはないけど、……種としてのイヌが、そういう性質をもつ生き物だってだけなんじゃ、ないだろうか。




 南美川さんは、ひとなのに――。




 ……でも、そうされたことは、もちろんけっして、南美川さん本人のせいではない。

 疲れて、悲しくて、……すぐに眠ってしまうこと。

 子どもみたいだけど、違うのだ、――南美川さんは、耐えたのだ。それでも。――おそらくは厳しすぎた、動物の心にしようとする調教に。

 その証拠に、眠りに落ちる最後の最後まで目を開けて僕を見つめようとしてた……。



 ……だから。

 僕は、そのふわふわした頭や、つるつるした背中を、そっと、ずっと、……撫でてあげていた。




 ……さっきの、南美川さんの泣きかた。

 変なたとえかもしれないけど、……雪が、しんしんと降った夜中みたいな泣きかただなって、思った。

 それほど、静かで、――底冷える。まるでそんな、泣きかただったのだ……。





 ……僕は、ため息を小さくついた。

 僕のため息はじっとりと湿っていて、……自分でも、ちょっと気持ち悪いなって思った。



 剥き出しの白いお腹が、上下する。南美川さんは、どうにも本格的に眠りはじめている。






 ……さて。






「……南美川さん、いい子で寝ててね」



 僕は静かに声をかけると、……ハラリ、と水色の毛布を南美川さんの身体にかけた。

 顔だけが覗く。それだけ見てれば――まるですでに、完全な人間なのに。



 ふう、とこんどは湿ってもない軽い息を細く長く吐くと、天井を見上げて、コキコキとすこしだけ肩を鳴らしてみた。まあ、……歩くことくらいは、できるだろう。体力じたいは、すごく落ちてしまっているかもしれないけれど。



 ……もし途中で起きたら、不安になってしまうだろうか。

 そうも思ったから僕は、……スリッパでよいしょと立ち上がって、まあちょっとよろめきそうになったけど、うん、充分立てるな、そのままフラフラと備えつけの簡易デスクの引き出しを漁って――アナログタイプのほうのペンと小さいサイズのペーパーを、発見した。……うん、やっぱり。たいていはあるんだよな、ふつうのオフィスや店はともかくしても、病院とかいうこの手の施設ってこういうアナログツールが――。






 僕はちょっと迷って、……すぐに戻るからね、ってまず、書いた。

 そしてまた考えて、行を変える、……待っててね、と。

 またしてもちょっと考え込んで、最後のひとこととして、……信じて、待ってて。と、書いた。


 ……文章を書くのは、どうにも得意ではない。

 そもそもひととのコミュニケーションがうまくないのだから、……それは、そうなるよな。オープンネットですら僕は、ろくに発言した試しがないのだ――。





 ……学生時代となんら変わりない不器用さと汚さの文字によるメモを、それでもまあ読めるなとひとりうなずいて。

 枕もとにささやかなプレゼントのごとくメモをそっと置いて、僕はなるべく音を立てないように、病室の外に出た、――そういえば旧時代にはサンタクロースっていう迷信がほんとうにメインカルチャーだったのよなんて、そのことだって南美川さんが教えてくれた。






 ……パタン、と自分の病室ドアが閉まって。

 午後の明るい時間でも、……海の底みたいに静かな病室。

 病棟フロアのコアステーションには若い男性が座っていた、朝にいた女性の看護師さんとはとはちょっと違ってにこやかで爽やかなひとだった、僕も小さく頭を下げようとしたけどうまくいかなかったからせめて目礼だけでもしておいた。




 そろりそろりと向かうのは――さきほどの、面談室。

 ほんとうはコアステーションで許可を取ったほうがいいのかもしれない、でもどちらにしろおこなう内容はひとさまにはあんまり言えないんだ、だから咎められたら場所を変えようってくらいに思っていた、面談室のドアノブは軽く回った、そのまま中に入ってもだれの咎めも追ってこなかったから――僕はすかさず身体を滑り込ませた、さあこれで、――しゃべれるね、






「……Please,Neco」






 ピコン、と鳴った。

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