顔
ひと通り説明を終えたということなのだろう、
ネネさんは最後に黒猫みたいなニイッとした笑いを残すと、――たぶん、そんなことさえもほんとは僕たちに気を遣ってくれて、
そして、そのまま――なにかあったら呼べよ、とだけ言い残して、病室を出て行った。
……僕は、南美川さんと、ふたりきりになった。
僕はベッドに腰かけたままで、南美川さんは僕を見上げている。やたらと尻尾をぱたぱたさせて、不安そうにつぶらな瞳で僕を見上げている。
ああ、南美川さん。たぶん、不安で。――犬の顔を、しているね。
……思えば南美川さんとふたりきりになるのは、そういえば、……すごくひさしぶりな気がする。
南美川さんの実家では、……いつもだれかがいろんな意味で邪魔しに来てたし、
ネネさんに救い出されてからは、僕はこの病室でこんこんと眠り続けていた――意識が戻ってからもそれこそ体力のなさすぎる引きこもりのようにずっとずっとうつらうつらとして、ちょっと目覚めて南美川さんを抱きしめていれば、――すぐ面談室に向かうことになって、説明がはじまった。
……あの残酷な説明が。
いや、……残酷なんてどころじゃ、ないよ。
残酷っていうなら、南美川さんの実家で起きたことだって、そうだったけど――。
……だって。今回は。僕は。
僕は。――僕が。そんなこと。
南美川さんはいまも不安そうに僕を見上げている。
だから僕は、……ほとんど無意識のうちに、その身体を抱き上げた。
そして、自分の膝に乗せた。背中から、包み込むように。
とくになにを言おうとかは考えていなかった、というよりかそこまで頭が回らない、だから僕の口から滑り出してきたのはとても、とても素直で素朴で、そのままではむしろ幼いほどのものだった、
「……ひさしぶりだね。南美川さん。……最後にちゃんと話したのは、月を見たときな気がするよ」
「……なによ。ひさびさにわたしに話しかけてくれたと思ったら、言うことが、それ?」
すぐそこの斜めの角度で、南美川さんはちょっとだけ、あっかんべーってするみたいに笑った、……あ、ひとの顔になった。
冗談めかして、舌を覗かせる。舌を出すことじたいは、……犬らしいことのはずなんだけど、なんかもうたぶんこのひとは、そのあたり、受け容れてきて、……受け止めることはできなくても、そうしようとしていて、だから、こんな――犬めいているのにしっかりと人間な、そんな、……強くて明るい顔が、できるのかもしれない……。
だから僕は、……僕も、よいしょ、とわざとらしいかけ声をかけて、南美川さんの身体の向きをこちらに、真正面に向かせた。
「話しかけてたよ、ずっと。意識が戻ってから、……いろいろ」
「わたしが空から落っこちてきた、とか?」
「それもだし、……怖いね、とか」
「……なんか、シュンがなにかぶつぶつ言いながら、寝ていたわたしを無理やり移動させたのは覚えてる」
「なんだよ無理やりって、ひどいな。南美川さんが布団も被らずに寝てたから、布団の下に移動させてあげたんだろ」
「だって、わたしは犬だから、そんなの――」
「当然じゃ、ないです。寒いでしょ。風邪引くでしょ」
南美川さんは真面目な顔で僕を見ていた。
やがて、むーっ、とした口になるのが、とてもわかりやすい……だから僕はえいっとこれまたわざとらしいかけ声をかけて、そのほっぺたを両手でぐにゅっと、挟んだ。
「うー、あー、なにするのよ、シュンっ」
南美川さんは僕を睨もうとして、いや、たぶん睨むふりをしようとして――あはっ、とそのまま笑い出してしまった。
あはは、あははは、と。短い前足を、かわいらしくばたばたさせている。
僕も自然と顔がほころんで、……だからそのほっぺたを、もっともっといじり続けた。
「やめて、やめてよお、変な顔になっちゃうの、あは、あははっ、やめてえ、もう、――やめないなら、こうだからねっ!」
南美川さんは弾むようにそう言うと、僕がふざけて顔に乗せていた右手を――ぱくっ、と口に含んだ。
そのまま深くまで、食むように、……喉の奥に触れてしまうだろうに、あぐあぐと、すべてを含もうとする。
「……おお……」
なんか、こう、……自分でもよくわからない感慨の声が、出てしまう。
すると南美川さんはパッと口を離して、
「なによ、そのびっくりしましたーみたいなわかりやすい顔」
「いや、……僕の手でも、口に入りきるんだなあって思って。いちおうこれでも、成人男性の手なんですけど……」
「知ってるわよ。……そんなに、わたしの口が小さいと思う?」
「うん……だって、小さく見えるし。南美川さん、女の子だし……」
「……シュンはほんとに女の子のこと、知らないのね? べつにね、女の子の口だって、お米粒みたいにちっちゃい口ってわけじゃ、ないんだから」
人犬の南美川さんにからかうように見上げられると、あ、――心が、どきっと跳ねる。
「……シュン。なでて」
わたし、手、……なめてあげるから、って。
南美川さんは、そう言った。
「……いまは、いまだけは、そうしたって、いいでしょう……?」
「うん。――もちろん」
僕は、南美川さんの口もとに従えるように右手を差し出した。
南美川さんは、まるで神聖なものでも食べるかのように、その手のひらをそっと口に含んでくれた。
……口のなかって、生温かくて、とろとろして、溶けていきそうで、ちょっとむずったくて、……ふしぎだけど、気持ちいいものなんだな。
左手で、南美川さんの頭を撫でてあげた。
耳は、隠しようもない、――しおれてた。
……やがて、南美川さんは泣きはじめた。
静かに。とても、静かに。
ただ、涙だけは、……だくだく流して。
僕の右手を、……深い嗚咽とともに、口に含み続けた。
逆にいまは、僕の手がこのひとの口のなかなんてだいじなところを満たしているのが、必要なんだ、そうわかったから僕は右手を貸して、左手でこのひとのぐったりしてしまった犬の耳を撫で続けた、そうだよね、――人間の手を口にぜんぶ含んで舐めていれば、嗚咽はどうにか抑えることが、できるんだ。
……派手に、泣きたくないのだろう。
最初は、あんなにも喚き散らして、全身で子どものように泣いていたのに――ああ、その泣きかたは、……犬らしいのに、とてもおとなだ。
おとなの女性の顔をして、……このひとは、泣いているんだ……。
南美川さん。……気丈なひと。
だからあなたがいまそう望むなら、……僕の汚らしい手だって、その柔らかいところに、必要なのだろう、それと同時に思うのが、僕は、……僕なんかが、このひとを――下の存在として、扱えるのか。
右手はくわえられているからぶれないけれど、南美川さんの頭を撫でる左手は、……気がつけば、なんども迷っていたのだった。
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