寒いんだよ

 ネネさんは、オリビタと、――それに伴う痛みの説明を南美川さんにした。

 もっとも僕に対するときとは説明のしかたが多少違っていて、つまり理性がうしなわれるだのケモノ同然になるだの、そういった表現は極力避けていた。……ニュアンスって、すごいんだ。ちゃんとして立派なおとなのひとは、そのあたりを操ることができるのだ……。



 南美川さんは、最初は尻尾を軽快にぱたぱたとさせてもの分かりよくふんふんとうなずいていたが、やがて尻尾の動きがぱたりと止まり、だらんと垂らしたままになって、驚愕、否定、悲しみ、怒り、――百面相のように表情が変わっていった。



 痛みの話が、終わったとき。

 南美川さんはおすわりの格好のまま、ただじっと目を見開いてネネさんを見上げていて、

 ほかのところは動かなかったけれど、

 尻尾だけゆらりと、いちどだけ大きく、円を描くように振った――。




 ……僕には、それだけで、伝わってくるものがあった。






 南美川さんはしばらく静止していたが、やがてくるりと僕の顔を仰いだ。

 そこにあるのは紛れもなく、――不安と、焦燥の顔。




「……ねえシュン。それって……そんなに、痛いの……?」

「ああ、痛いらしいね」

「……なによ、らしい、って……」




 そう言われても僕だって、……さっき聞いたばっかなんだから、しょうがない。




「……だって、痛いのは……」




 やだ、と言おうとしたんだろうなと僕にはわかった。でも、そのときにちゃんと言葉を呑み込んだこともまた、僕にはわかった。



 いい子だ。成長したんだ。あるいは、取り戻したんだ――人間らしさを。

 思ったことをそのまま投げつけるのではなくて、遠慮とか配慮をする、すくなくともしようとする、南美川さんは犬になったからいちどそこだって破壊されたんだろうけど、強い、このひとはほんとうに強いひとだから、……そうやって、取り戻してくれるんだ。







 ……だから、身体だって、立場だって、なんもかも。

 心だけではなくて、人間に戻ってほしい――そう願うだけのことだったのに、どうしてまた、そんな、……痛みとかいう話が出てくるんだよ?



 ……言わなかった。言わない、けれど。

 理不尽ってことであれば、僕だって充分、もういいよってほど理不尽なんだ――。





 ネネさんはそんな僕たちの雰囲気を、……待っていてくれたかのようだった。

 たぶん、タイミングを見計らい――




「――そう。痛いんだよ。とても。

 だから、春には休暇を余裕をもって取ってもらった。考える時間も……できるように。


 ……急かしはしないから。

 ふたりで、……よく考えてくれ。


 繰り返しとはなるが、私はオリビタの投与を無理に推奨することはない。

 ……ヒューマン・アニマルとなった人間の遺伝子情報と書類を揃えることは、あらゆる場合のあらゆる意味で容易ではない。まずそれを成し遂げたヤツらにはそれだけで覚悟が見える。そんなヤツらでさえも、――かならずしもよい結果には結びつかないことだから。




 ――それともうひとつ言っておこうか」





 こわばる、――なんだよ、まだあるのか、

 僕はそっと……南美川さんの人間のときのままの素肌の肩を、抱き寄せた。……寒い気がするんだ、この病室には暖房は完備されてて、人間の素肌が剥き出しの南美川さんだってこれなら寒くはないだろうってほどの適温なのに――。







「……もし、オリビタの投与を決意した場合は。

 二週間の準備期間を設ける。


 その準備期間とは、……オリビタの被投与者、つまりそのときではヒューマン・アニマルの者の、……調教だ」

「……え……調教って、なんですか、それ、南美川さんこれ以上そんなこと――」

「ああ。――でも、投与前の調教が、成功率に大きくかかわるんだよ。……キーなんだ」

「……どういう、ことですか……」




「……オリビタの投与中は、ほぼ百パーセント理性をうしなうということ、春にはもう、説明したな。

 理性をうしなった人間は、……ケモノと同然になる。

 そんな相手に、嫌がる薬を飲ませるためには――」





 ――まさか。僕はぞっと悪寒がして、南美川さんの肩に乗せた手に力を込めた、……南美川さんも、息を呑んでる。





「……ヒューマン・アニマルとして受けた調教の経験を再利用する。……保証人を主人と見立てた調教をする。

 充分で確固たる上下関係ができたら、……その時点で、投与を開始する。

 投与は対等な人間どうしとしてはおこなわない――いくら被投与者が泣いても、喚いても、……とにかく薬を与え続けることが、保証人の仕事だ。痛くても」





 僕は呆然とした気持ちを隠すことさえできなかった、





「それは、つまり――僕が、南美川さんを、……飼い主みたいに調教するってことなんですか?」




 ひっ、と南美川さんが喉の奥で引きつった音を立てた。





「ああ。――残念ながら、その通りだ。

 だから、よく考えてほしいんだよ。……調教の時点で心が折れる者たちだって、少なくはない、私だってそんなことくらいは理解できる、……人間に戻したい相手で、だから苦労してまで私のところに来て懇願してさあ、書類も揃えたのに、――その先に待ち構えるステップが、まさかその相手をよりにもよって調教師みたいに動物として再調教するだなんてね」




 ネネさんは、肩をすくめた。……無理してる。




「……私も、カナも、こんな残酷なやりかたしかないのかっていうのは、いつも議論するんだ。それこそ、夜通しでな……。

 でも、……無理なんだ。現状、その方法論がいちばん有効なんだ。


 相手を人間扱いしていてはオリビタの投与は成立しない、また完遂率もぐっと下がる――」

「……そのために、僕に南美川さんを調教しろと? ……犬のように……」





「ビンゴだ。春。――だからよく考えてほしいんだ。時間は、用意したから。

 そうだな、……年明けくらいまでに、ゆっくり考えてもらえばいい。ちょうどまるまる一か月くらい、あるだろう。


 ……おまえの身体もいくらか検査をさせてもらうが、まあ、おおむね衰弱というだけだろう。

 数日後には、退院させてやれると思う。そうしたら、」





 十二月だ、……年の瀬だ、とネネさんはつぶやくかのように言った。





「……ふたりで、ゆっくりしてみるといいよ。

 なにせ年末というのは凍えるものだ。温かい部屋で、ふたりで、――ぬくぬくしていればいい」





 僕はこんどこそぎゅっと南美川さんの両肩を掴んだ、寒かったのだ、ほんとうに、ほんとうなんだこの部屋は温かいけど、寒かったんだ、だからそうした、南美川さんもぎゅっと僕の胸にすがってくれて、……南美川さんの素肌には鳥肌が立ってた、寒いんだ、ほらだから、寒いんだよ、ほんとうなんだ、ほんとうにこんなにも、寒いんだ、




 ――ほんとうなんだよ。

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