覚悟

 そのあと。

 南美川さんに、対して。

 ネネさんの、あくまでも南美川さん向けに内容が限られ、また順番も工夫された説明が――なされた。




「……それだから、シュンはしばらく会社をお休みするってことなの?」




 ベッドのうえでおすわりしている南美川さんが、ぱたぱたり、とネネさんを見上げながら尻尾を振った。

 ああ、とパイプ椅子に座るネネさんはうなずく。疲れはあきらかに残っているが、――いつもの飄々とした雰囲気を醸し出せるほどには、エモーショナル的にも回復したようだ。



 ……たぶん、橘さんはもう会社に戻ったのだろう。いまさっき病室に入ってきたネネさんにそう言われたってわけじゃないけど、午後には会社に戻ると橘さんは言っていたのだから。

 すでに、午後。ふらふらと病室に戻って、まだ呆然としていた僕は、南美川さんに心配されて、優しく優しくその舌で、人間だったときのままの舌で温かくぺろぺろしてくれたりもして、それでもただ呆然としてしまってなんとなく僕は南美川さんを抱き締めたまま背中からベッドに倒れて、……そのままコテンと眠ってしまったのだった、そしてそのままネネさんが昼食を持ってくるまでずっと明けきらない明け方に酷似したような夢を見ていた、

 ふらふらして、呆然として、倒れるごとく寝る――懐かしかった。それは、……まぎれもなく、引きこもり時代とおんなじような行動。

 ただし、いまの僕にはどうもまだ職があり、いちおうは社会人としての立場があり、……最低限だとしても人権が認められる程度には充分に人間で、……南美川さんが、いる。




 南美川さんにはベッドのうえでおすわりしてもらって、僕はその隣でスリッパを履いて足を床に下ろしている。

 病室の床は落ち着くダークブラウンのフローリングだけど、南美川さんを下ろすにはちょっと抵抗がある。なにせふつうに土足でも入ってくるであろう床なのだ。僕の部屋では床で過ごしてもらっていたけど、それは、僕の部屋はいちおうは定期的に床まで掃除をして、僕だっていつも地べたに座って過ごしている程度の清潔さだったのだし――。



 それに、……ネネさんがパイプ椅子に座って僕がベッドに腰かけていて、南美川さんだけフローリングの床になんて、ね、……そんな犬らしいことは、させられない。もはや――。



「ああ。そうだよ。……春も、そのつもりだ。なあ春?」

「はい……」




 それは、僕の決心だった、いや、それ以前の問題だ、――南美川さんを人間に戻すことはもはや僕の前提だ、

 だからほんらいは力強くたっていいはずの気持ち、なのに――僕の肯定のうなずきは、……こんなにも弱々しい。




「幸奈。いまの私の説明を、よく聴いていたね?」

「うん。……時間が必要なのだわ」

「いい子だ。そう。……時間が、必要なんだ」




 ……ここから、だ。

 ネネさんがいま南美川さんになしたのは、……僕が会社を長期的に休むという事実と、それにより結果的には僕は不利益を被らないという事実、その程度だ。




 ……けっきょく、僕は休暇を受け入れた。橘さんの、……いや、会社の決断を受け入れ、……甘えることに、したのだ。



 僕の有給は、来年度は五日ぶんだけだ。

 でも、そのぶんは僕の昇進を急いで、選択休暇の一年ぶんをすべて給料に当てたとした場合の昇給も検討するなどして――対応してくれるのだという。その場合には僕は、いまも対Necoプログラマーという立場から――対Necoシステム設計者となることを、いま、会社では、大真面目に、……えらいひとも含めて、検討中なのだと……。


 そうなれば当然僕の仕事内容も変わる。対Neco事務作業はなくなって、……おそらく、ほとんどが開発に回ることになるだろう。

 Necoと、しゃべるだけではない。

 Necoとの、しゃべりかたまでも――責任をもって、考え抜いて、変更し、更新し、……社会を支えるNecoを、そっと支える役目になるのだ。

 そういう、仕事なのだ。……専門性がぐっと高くなるなんてこと、さすがにNecoで大学を卒業した僕は、知っている。


 ふつうはもちろん、いくらいい会社とはいえ、……二年めで、そこまでの昇進は難しいはずなんだけど。

 僕は、……実績があるからって、材料にも困らないからって――異例の対応だけどやり遂げてみせるって、そう、……橘さんは言っていたらしい。どうせ、どちらにせよ、……最速で昇進を望む期待のホープだったし、とも。

 上だって、おおっぴらにそうは言えないだけ。難しい顔をして、最後は来栖くんを優遇する気はマンマンですよ、だってあのひとたちだって能力ある若い子は大好きなはずなんです――ネネさんはあんまり似てないモノマネまで交えて、……橘さんのそんな言葉を、伝えてくれた。



 なぜ、らしいとかいう言いかたをするかって、……僕には直接そんなことは言わなかったくせに、橘さんはネネさんにそう漏らしていたらしいからだ。

 そしてネネさんはネネさんで、……そんなことを、正直に僕に伝えてくれたのだ。なんですか、なんなんですか、素直ですかって言いたいほどに――。





 そして、だから、……僕はいまからたっぷり数か月規模で、会社に行かないことになる。

 南美川さんの、そばにいて。

 ……南美川さんを、人間に戻すために、……いっしょに、闘うのだ。





 ……闘うなんて、いちばん不向きなんだけど……僕は。

 でも、でも、――南美川さんのためになら。




 そして、あるいは、もともとが優秀者だった南美川さんなら、闘うことにだって慣れているのかもしれない――。

 国立学府への、進学。……南美川さんは自分でそこをまったく自慢しないけど、あの高校から次席として国立学府に晴れて進学するだなんて、……ほんとはどれだけのなんの闘いを切り抜けたことか――。







「……どうして時間が必要なのか。幸奈。……これから、おまえに説明する」






 僕は思わずギュッと目をつむってしまった、引きこもりの底辺人間の発作みたいに、ほんとならここで僕が説明しますなんてほどの勢いを、見せたかった、――覚悟を見せたかった、でも無理なんだ僕はしょせん、こうやって、……だいじなときには、人間未満に充分値していたあの引きこもりの不潔で気弱で役立たずの、劣等者の引きこもり少年のころとおんなじ癖を、露呈させてしまう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る