オリビタを飲めば
ベッドのうえで、背中を折って、南美川さんの全身を抱き留めるように抱き締めながら。
思うことはといえば、……僕にとっては呑み込むどころかまだ口に含むことさえできなていない、先ほどのネネさんの具体的な説明にもとづいた、
たとえば、――たとえばの繰り返し。
オリビタを南美川さんに経口投与する役割は、……僕だ。
それはドロッとしたタール状の
指に付着させて、……およそ六時間にいちどずつ、効果が切れそうなタイミングを見計らって、継続的に与え続ける。
まるで、親が赤ちゃんにミルクを与えるかのように。
使用者は初回の使用からすぐに痛みにのたうち回り、……動物的な本能で、オリビタを飲むと身体が溶けるのだ、痛いのだということを、学ぶ。
そして投与を拒否しようとする――しかし、だからこそ定められた保証人だ。
つまり僕は、痛みのかたまりを、……痛み、そのものを、ケモノになるほど痛がる南美川さんにもなんども、なんども――自分の指から、舐めさせなければいけないということになる。
……ネネさんも、共同開発者さんも、そこだけは、手伝ってくれないという。
すべてに責任をもてるのは――僕、だけなのだ。
……たとえば、だ。
たとえばこの、南美川さんの前足。
いまも、僕の胸にすがりついて、病院着にしわを生んでいるこの前足。
肌色の素肌からふいにもこもこっと金色の毛並みが生えた、人間だったら肘のあたりの長さまでしかない、この細くてちょっと力を入れればポキリといってしまいそうな、……じっさいにたぶん折ることも容易であるだろう、ひとの上半身の胸部は晒して残したままで、それでいて犬の生活に最適化された、……四つん這いにしかなれない、腕、……腕、かつては腕だったはずの――前足。
オリビタを飲めば、前足や後ろ足を構成する細胞が溶けていく。ドロッドロに、溶けていく。
動物のソレにされるときには社会の技術の需要でほぼ一瞬で変質したその四肢は、
人間の細胞情報を思い出させるかのようにもういちどインプットして、人間のかたちにふたたびしていくまでに。動物になったときのすばやさとはまったく真逆の緻密さで、その変化は進行していくのだ。
……きっちり七日は、かかるという。
この、細くてふわふわで、力を入れたら折れてしまって、……地べたに四つん這いであろうとなんであろうと、そしてたとえ人間の歩行距離に比べればほんのわずかの距離でしかなくとも、南美川さんが身体を動かしていくために必要で、……当然、身体の一部でもある、犬の四肢。
七日もかけて、……先端から、溶かしていく。
まるで金属さえもドロリと溶けそうな高温の焼きゴテを当てられてでもいるような痛みに酷似しているらしい、と――。
……こんなに、細くて。
ふわふわ、なのに。
南美川さんの、……身体、なのに。
たとえばこの、南美川さんの赤い唇。
身体をそっと離せば、きゅっと引き結ばれてもの問いたげな、理知的な、この赤い唇。
人間のときのままのそれは、意思が強くて、ときにはかわいらしい。
高校時代にはけっして僕には向けられなかったたくさんの言葉を、いまやこのひとは、……僕に向かって紡いでくれる。
そして同時に、――混乱してしまってときには犬の心にほとんど戻りかけて、言葉を使うことさえ恐れて、ごめんなさいごめんなさいと泣き喚くかのようにキャンキャン鳴いていたのだって、そうだ、――この唇からすべては発されている、のだ。
オリビタを飲めば、この唇からはおそらく理性的な言葉がほとんど聞けなくなるという。身体を焼かれる痛みは、人間の理性さえも簡単にうしなわせる。痛いのに、痛い痛いと叫ぶのに、――保証人は、けっしてオリビタの投与をやめようとしない。
身が、引き裂かれるほど。気が、狂いそうなほど。
いっそもうここで殺して、楽になりたいと、そう思うほどの痛みなのに――その想いは、……心にわずか残っていた人間らしさを、多くの場合は完全に破壊するという。
やめて、殺して、死にたい、痛い。
たぶんだけど、言葉はそういうことしか言えなくなって。
やがてそんな気力もなくなる――壊れた涙腺からぐちゃぐちゃの涙とそしてあらゆる体液を、だくだく溢れさせて垂れ流しながら、やがて言うようになるのはケモノのごとき鳴き声だけ、うわん、……うわああんと、その唇が馬鹿みたいに大きく開かれてそのときこのひとは僕に、ゆるしを乞いはじめるのだ。……やめて、殺して、死にたい、痛い、と。
……こんなに、理知的で。
かわいらしくて。
僕と、おしゃべりしてきた唇なのに――。
たとえばこの、南美川さんの表情。
堪らず頭に手を載せれば、……どうしたの、と心配そうに、それでいてちょっと誇らしげにも見える顔で問いかけてくる、この表情。
南美川さんはいつでもちょっと誇らしげなのだ。
気が強そうに笑うところは、……ほんとうに驚くほど、高校時代から変わってない。
もちろん、僕には当時向けられなかった表情だってこのひとはもっている。卑屈に、媚びる顔。哀しくて、しょげる顔。やってしまったと、怖がる顔。……峰岸くんには向けられていても、僕に当時向けられていたこのひとの表情なんて、――絶対者として王女さまのごとくふふんと、見下ろしてくる顔だけだった。
でも、僕はもともと知ってた、……僕じゃなければ、……対等な人間ならば、彼女はそういう顔を向けるってこと。
妄想にまで夢見たその、笑顔さえも――いまでは、僕に向けられている。
オリビタを飲めば、きっと高校時代とは逆になる。
ゆるしを乞うのは、一方的に圧倒的に南美川さんのほうとなる。
泣いて、泣いて、――だくだく泣いて、卑猥なほど媚びて、悲しさを浅ましいほどに主張して、これでもかってほどに怖がって、……僕の与えるオリビタを遠ざけるためなら、なんだってするようになるだろう。
痛いの、やめて。
そう訴えるためなら――きっと彼女は、もういちど犬にだってなるのだろう。それほどまでに、……痛いという。
……こんなに、かわいくて。
おもしろくて。
表情豊かで――僕なんかにはありあまる眩しさに満ち溢れた、そんな顔ばかりするこのひとなのに。
南美川さんは、こんなに、こんなに、……魅力的な、ひとなのに。
ひとであるべき、ひとなのに……。
「……どうして……」
うなだれる僕に、南美川さんは首をかしげた。
ぱたり、と尻尾がいちど大きく斜めに、振られる。
「……どうしたの?」
僕が言葉で答えなかったからだろう、南美川さんはもういちど反対がわに、首をかしげると、――小さな身体で背筋をピンと伸ばして僕の首すじをぺろぺろしはじめてくれた、すぐそこの上目づかいの顔が、語ってる、――心配してるわって、
ああ。南美川さん。南美川さん。
僕は、思うよ。
やはり、犬になるなら――むしろ僕のほうであるはずだったんだ、って、いまさらのように、……この期に及んでそんなことを……。
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