実感
……実感が、湧かない。
病室にいる。いまの僕の周りは、もはや、静かだ。ぐわんぐわんと僕を取り巻いていたかのようなおとなの女性ふたりの声は、……ここにはもう、存在しない。
ネネさんも、橘さんも、……僕に時間をくれた。
まだ、午前中だ。橘さんは僕のために午前中のすべての時間を用意してくれたという。あのふたりはいま、……あの面談室か、そうでなければ病院のベンチかどこかで、缶コーヒーでも飲んでいるのかもしれない、けれど。
それでもあのひとたちの言葉はいまも、……声質レベルで、僕の頭でうわんうわんと響いている。
声もだし、もっと言うなら意味も、……だし。
まったく、実感が湧かない。
おんなじベッドのうえ、……広いとはいえひとり用のベッドのうえで余裕をもっていっしょにいられるほどの身体しかもたない、いまは人犬のこのひとを、
いま、僕の目の前でこんなにも穏やかに、それでいてはち切れんばかりに嬉しそうに、笑って、……笑って、尻尾を振ってるこのひとの、ことを、
南美川さんを、
人間に、戻すには。
このひとを僕がいちどみずからの手で地獄に堕とさねばならないだなんて――。
こんな、穏やかな午前の時間のなかでは。
こんな、……穏やかな距離感のなかでは。
「どうしたの? シュン。……顔色が悪いわ」
南美川さんは僕の胸元にふたつの肉球をきゅっと載せて、そこにある顔で無邪気に訊いてきてくれた。
耳も、うきうきとしてぴんと直立している。尻尾も、ぱたぱた振っている。
リラックスを、している。……してくれて、いる。
先ほど、そうだなたぶん五分だか十分前か、――もともとが病み上がりの病人なのにそんなこと以上の理由と気持ちでふらふらになって戻ってきた僕に、……なあに、とは訊かずに、
トスン、と呆然としてベッドに座り、放心して、……まるでその五分間だか十分間だか切り取れば僕は完全に廃人の様相だった、そう、覚えがある、引きこもりのときには僕はよくこうやって部屋のベッドで呆けていた、ただし違うのは、あのときは壁を眺めていたけどいまでは午前中の明るくて自然物的な景色がこんなにも見られること、
そして、そして、――そんなことよりなによりも、南美川さんが、……小さな身体の全身で僕のそばにいてくれる、こと。
……黙って、なにも言わずに。
おすわりをして。尻尾を、ぱたぱた。
それでも僕があんまりにも呆けているから、……のそっ、と動いた南美川さんは、遠慮がちに肉球を僕の膝に、載せて、
拒否されないとわかると――そのままのそのそっ、と僕の胸もとに這い上がってきたのだ。
こうやって。……いま、そうしてくれているように。
……嬉しくない、とは言わないよ。そりゃ、そんなのはさ。
だって南美川さんなんだ。南美川幸奈さんなんだ、このひとは。まぎれもなく。
南美川さんがそのつぶらな瞳で、……多少歳は取っただろうけど相変わらず可愛らしい目で、ぱっちりと、僕を、……僕だけを見てくれている。
もはや、……彼女は強者じゃなくて。僕をいじめるひとでは、……なくて。
こんなにも、全身全霊での信頼を寄せてくれていて――。
……そりゃ、嬉しくないわけ、ないさ。
でも――。
「どうしたの――」
南美川さんが次の言葉を紡ぐ前に、僕はその柔らかい金髪の頭に手を載せた。
南美川さんは、くすぐったそうに笑った。
その顔を、表情を見ているのが、……たまらなかったから、僕はそのまま全身を抱き寄せた。
きゃらきゃら、ともっとくすぐったそうに、幼い女の子みたいな笑い声を南美川さんは上げる。
僕はそっとした手つきで、でももっと、もっとこのひとの頭を撫でる。撫でてみる。
ああ、金髪に映えるふたつのリボン――僕の動けなかったあいだにも、だれかが、結んでくれていたんだね。
ネネさん、かな。――だとしたら、やっぱりあんなざっくりとした感じのひとでも、……やっぱり女性が結ぶっていうのは、もっときっちり、……いや、……かわいく、……結べるってもん、なのかな。
僕は、南美川さんを強く抱き寄せていた。強く、……強く。
彼女がなにかを言い出せないほどに。
だって、僕にはやっぱり見えてしまうんだ、このひとのことが、そうやって、
このひとは、ああ、このひとは、――ひとなのに、
やっぱり――どこまでも、犬だ。
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