まるで修道女のように、

「……怒っているだろう。春」




 ネネさんは、呆れるでもなく、かといってたぶん同情するでもなく、僕にそう言った。



「怒りに、うち震えている」

「……ひとのこと、実況しないでください、そうやって……」



 ああ、いま、そんなことなどほんとうに、――ほんとうにどうでもいいというのに。



「いいんだ。春。いいんだよ。怒るというのは――ひとにとって、当然の感情なんだから」

「……怒って、ないです、そんな、僕なんかが、ひどい現実に対して怒る権利なんか――」

「あるよ。それにさ、おまえいま、ひどい現実って言ったよな。私はいまたしかに、内圏ないけんの政治事情を話した。しかしそのワードは、――用いていないと思うのだが?」




 カッ、とまた頬が熱くなったのを感じた、……見通されるのは、好きじゃない。それに、慣れない。いまだに。

 こんな僕。劣等の僕。周りから見たらどうせ丸裸同然に、わかりやすくわかってしまうのだろうけど――それこそ、高校時代に僕が南美川さんたちにそう、されていたように。




「……僕が、怒って……怒っていると、して。なにが、変わりますか……」

「そうだな。――なにも、変わらない」




 あまりにも平然と言うから僕は顔を上げて、

 ネネさんはなんだろう、なんだろうその笑顔、そうだ、痛々しい、痛々しくていまにも泣きそうに――笑っていて。嘘だ、嘘だと僕のこころは叫んでいる、南美川さんと再会したときだって最初は思ったけど、――優秀者が、心を痛めることなんてありうるのか?

 ほんとうに? ――なにかの手違いとかでは、なくて?





「先発品は、購入できない。たとえ政治家どもは軽々と購入できても、私も、失礼だが亜音斗でも、そして春も、――借金したって、購入できない。


 いいかい。……私たちのオリビタは、希望は、……無料だ。

 さきほどの繰り返しにはなるが、アンタたちにも無償で提供させてもらう――こちらがわの提示した条件は、ただひとつ。被使用者の、……アンタらの場合であれば幸奈の細胞を、リアルタイムで採取させてもらうことくらいだ……。


 無料だが、……大変な痛みが、伴う。

 地獄と生還者みなが語る、痛みだ。生還者はそう語るし、――痛みのあまりショック死してしまった者も、耐えかねて途中で自死を決行した者も、そして身体は人間となっても心は動物どころか、モノになってしまい、生涯を物質状態ぶっしつじょうたいで過ごした者も――けっして、少なくはない。

 そんなレベルの、痛みだ。


 ――どうしてだろうね。ひとを、ただひとに戻すだけなのに。ケモノであるべきでなかったひとを、戻すというだけなのに。

 どうして、どうしてなんだろうな。カナとも、なんども語りあって、……ときには殴りあったが。



 ……罪なのかもしれないね、って。そもそもは。カナは、言っているがな。

 猫のときから間違えたのかも、って。

 ひとが、ケモノに。そして、ケモノを、ひとに。

 そんなことは人間が傲慢すぎたから産みの苦しみよりもっと痛いものが、与えられたのかもしれないな、って――」



 宗教的なひとなんですね、いまどき珍しい。橘さんがそう言って、小さく微笑んだ。

 ネネさんも、疲れたように、しかし親しい笑みを橘さんにそっと、返した。







「そして、春。――ここからが、おまえの意思だ」

「……はい。なんでしょうか」

「自分で、決定してくれていい」

「……だいじょうぶです。もう、わかってます。さすがに……」









「オリビタを使用するとき、私はかならず保証人を立てることにしている。といってもほとんどの場合は――そのヒューマン・アニマルを人間に戻したいと、私のところに連れてきた人間が、そのまま保証人となる。

 誓約してほしいのが、――かりに失敗をしても、私とカナに責任を帰さないこと。ずるいと思うかもしれんが、……それは私たちがこれからもオリビタを開発していくための条件でも、あるんだ。裁判でも起こされたら――倫理的にグレーなことをやっている自覚はある。だから、すまないが、――倫理的なお互いの合意による制約で、私たちの今後の研究を阻害する結果になるようなことはしない、と書面でそこにかんしては行動制限をさせてもらう。……いいな?」

「……はい。……べつに。……ネネさんたちのせいには、しませんから……」

「よろしい。――といってもここまではあくまで、形式上。だいじなのは、」





 ……必要なのは、となぜかネネさんは言い直した。






「春。――おまえもいっしょに、幸奈と闘うということだ。


 痛みに暴れるであろう、彼女を。

 錯乱して、わけもわからず、……暴言暴力は当たり前、

 痛くてもう死にたい死にたいと喚く、彼女を。



 痛みのあまり、――ひとのこころを一時的になくす彼女のそばに、どんなときでも、いることを。

 ……そして彼女がどんなに痛みで、もう死にたい、薬を飲まないと人間未満並みに泣き叫んでも。




 ともにいて、……死なせてやらないで、懇願されてもその口にクスリを突っ込んでいく。

 ……彼女にはそのとき燃え盛る溶岩に見える残酷な痛みそのものを、与え続ける。――じっさいそのせいで、そのあと彼女は一生アンタを信用しない可能性も、あるよ、――残念ながらそういうケースはまれではない。




 ……それでも、」







 ネネさんの黒い髪の毛がまるでベールのように見えた、






「……誓いますか? そういうことなんだよ。なあ春。そういうことだ。――すまない」




 ネネさんはそこでふいにテーブルに突っ伏して、橘さんはその背中を戸惑いながらも優しくたたいていたけれど、




 そうか、と僕は思い出した――修道女って言ったんだっけ、シスターとも呼ばれる、……教えてくれたのも南美川さんだったな、あんなにあんなに目をらんらんとさせて人文的な知識を語るのも好きな、南美川さん、ああ、ああ、そんなこと、――僕に知らせてくれるなんて、ほんとうに夢みたいな南美川さん、……南美川幸奈。

 僕を、いじめたせいで、……犬になった、とも言えるひと。

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