ネネさんの説明(6)人間は、身体の痛みでも心を壊す
ネネさんは気持ちを鎮めようとしているのか、ほう、と骨太なため息を吐いた。
……じっさい、いまの話題で、ネネさんは興奮していたのだと思う。
なんにでもひらひらと飄々としているかのようなこのひとは、じつはぜんぜんそうでもなくて、そうやってエモーショナルになることだってふつうに、ある――。
「……オリビタなら、金は要求しない。対価は、人間に戻しているときの細胞反応――
もっとも、金を寄越したいとわざわざ言ってくる場合は、拒みはしない。だが春にはオススメはしないぞ。幸奈の件で、休暇も取ることになったし、……幸奈を人間に戻せたとして、そのあとにもアンタにはやるべきことがあるはずだから」
南美川さんを人間に戻せたとして、そのあとに僕がやるべきこと――?
なんだろう、なんなんだろう、……うまいこと想像が、つかない。
「……ほんとに、お金を払わなくって、いいんですか? そんなのはギブアンドテイクの関係が――」
「おうおう、そうがんばってビジネス的オールドワーズを使わなくてもいいのだぞ、若者よ。気になるならさ、いずれ大成して大金持ちになってさ、金が余って余って仕方ないみたいになったら、ネネさんとこにドーンと寄越してくれれば、それでいいよ。……あー、春に最高級焼肉ディナーでもおごってもらう日が、楽しみだわ。幸奈といっしょにな」
ニヤニヤしているネネさんは、ちょっとだけいつも通りの雰囲気があって、僕はそれだけのことで安心してしまう、……僕は、相変わらず空気感ってものに弱いんだ。
「……それにな」
あ、それなのに、――またすこし顔が陰った、寂しそうにも見える顔。
「私は、むしろ申し訳なく思ってるんだ。……オリビタが、もっとちゃんと完成段階に近づいて、……あそこまでの副作用なく用いることができるなら、むしろ、それは正当な対価として金を取ってもいいと思ってるんだよ。けど――あんな副作用を出しておいて金を取るだなんて、ナイ、ナイナイだろう、だからタダでいいというそのホントの心はな――罪滅ぼしでも、あるんだ。私と、カナの。……オリビタの未熟な開発者たちの、さ」
僕の気持ちは、びくんとなった、――副作用って、いま言った。
「……カネを取って、あんな思いをさせるだなんて、私たちの気持ちが収まらないんだ」
「……あの、ネネさん。あの、その。……あの……」
「なんだい。――質問ならば、積極的にしておくれ。……ネネさんニブいから気づかないときがあるんだ」
「副作用――って、なんですか?」
「それが……地獄の、正体」
ネネさんは、僕をまっすぐ見ていた。
つらそうに。歯を食いしばるかのように。
先に耐えかねたように視線を落としたのは――ネネさんの、ほうだった。
「……オリビタは、あまりにも発展途上にある。開発者の私たちが未熟だ。かといって、開発にも、……倫理合法先発品にも、金がかかる。ほんとうに、かかるんだ。金がかかるってることは、……時間だって、かかるんだ……」
その言葉に、視界の隅で橘さんがうなずいたのが見えた。力強く。
「オリビタは、」
……オリビタは、と。ほんとうに苦しそうに、絞り出すかのようにネネさんは呻いた――。
「……人間身体遡行現象のさい、使用者に多大なる痛みを与える。
いや、……多大なる、だなんて言葉じゃ、済むわけない。
春。知っているか。……人間は、心の痛みのみならず、身体の痛みでも心を破壊しうるんだ。
たとえば、手術のさいに痛みを緩和するための麻酔、――そこで事故が起こった場合。
当然だが、……とんでもない痛みが、発生する。そりゃ、そうだ。脳だの内臓だのを、生きたまま切り開かれるんだぞ。
しかもさらに残酷なことに、……麻酔が失敗したことに、たいていの手術施行者は、気づかないんだ。なにせ麻酔が半端に効いてて、目が開けられないとか声を出せないとか、そういうことが充分にある――。
……生きたまま、切り開かれる。
痛い痛い痛い、って、……心の叫びは、けっして伝わらない。
悪意でされていることではない。善意だ、あくまでも。あるいは、仕事だ。使命だ。
病気を治すために、みんな一生懸命なんだ。
……しかし、そんな事実は、圧倒的痛みの前ではなんの意味も、もたないよな……。
たかだか十分や、五分。
時間にすれば、そんなもんだ。
手術は、……麻酔事故以外は、成功。
病気は治り、そのあとすこやかに生きられるようになる――はずだった、
……そんな患者たちは、それでも、そのたかだか数分の痛みの記憶のせいだけで、狂うんだ。
狂う。簡単に、ひとは狂うよ。複雑な理屈なんか、そういらないのさ、――人間は耐え難い痛みを数分経験するだけで、身体じゃないんだよ、……心がね、壊れるんだよ。
……麻酔事故の被害者には、自死を選ぶひとも多かったという――」
「……つまり、なんですか、ネネさん、……なんの話を、してるんですか」
嫌だ、嫌だ、僕は嫌だ、――そんなのが南美川さんに起こるってことだとしたら、そんなの、――そんなのってだって、
「オリビタの使用者にはそのレベルの、つまりそれだけで気が狂うレベルの、麻薬事故被害者と同等かそれ以上と思われる痛みが、継続的に発生する」
「……どれ、くらいですか、まさか一時間とか――」
「とんでもない」
ネネさんは、もうどうしようもないというふうに笑った――
「七日間だよ。……一週間だ」
僕のこころから、一瞬だけれど言葉が消えた。
ネネさんの顔は、泣き笑いに似ていた。
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