やるの
ひとけのない、社会ポイント高めの住宅街の、そんな夜道を。
シュンは、走る、走っていく。
けど、けど、……ちょっとずつよたよたしていくの、
いいの、いいのよ、無理しないでほしいって、言いたい、ほんとうは、でも、――言えない、
このひとが駆けてくれないと、このひともわたしもどこにも行けない、
どころかもしかしたらまたしても囚われてしまうかも、……このひとだって人間未満に貶められてしまうかも、
ああ、ああ、――わたしだってこんなに気持ちは急くのに、
できることといったらこんなこと思ったり考えたりそんなの、そんなの無駄なことってわかっていても思考をそうやって繰り返すことくらいで、
ほんとうに、なんにもならない、――このひとは走っているのに、
わたし、は。
なんにも、できなくて。
どころか、このひとにしがみついてただのお荷物みたいに、ううん、……ただのお荷物なのよ、
そして、そして、ふがいなさに涙を流すしかなくて、いやなのよ、ほんとうに汚い涙なの、
凛としてやたらと肌に心地いい冷たい夜風。
情緒と物語性の溢れる夜鳥の鳴き声。
新月の見え隠れするちょっと光り輝く夜空。
そういうのを全身で感じながら――なにもできないわたしは、ただ、ただ、醜い嗚咽をこのひとのなかで漏らしてた……。
……シュンは、だんだん、限界が近づいてきているようだ。
荒い、呼吸のなかで……
「先に説明しておこうか、南美川さん」
「……なにを……」
嫌な予感に、顔を見上げた。
「聴いてほしいんだ。……ちょっと専門的な説明も入ってきちゃうけど、だいじょうぶ、南美川さんならわかると思うし、……わからなかったら覚えてくれればいい。暗記科目は、得意なんだろ?」
「……いつの話よ、そんな、高校のテストじゃないんだから……」
「だって僕は暗記科目だってさっぱりできなかったよ。だいじょうぶだよ、南美川さん、できる。いや……その言いかたはちょっとずるい、かな。ごめん。ほんとうはね、……協力してほしいんだ」
「……えっ……」
協力――?
「……あなたは僕より頭がいい」
「そんなこと……」
「素直に聴いてほしいんだ、ごめん、いまは、……いまだけは」
わたしはまたしても泣きたくなる気持ちをぐっと堪えて、こくりとうなずいた。
「いいかな。いまから、僕があなたの実家に行って、なにをどう仕掛けてきたのかを説明する。
法律のこともちょっと出てくる。法律なんて……ふつうの生活をしてたら、まずふれる機会がないはずだ。
けれども僕は、いちおう大学で対Necoプログラミングを勉強して、専攻にもしたから――Necoにかんする法律だけは、すこしばかり開示されて、知っているところもあるんだ。
南美川さんは……大学では、法律とかにふれた?」
「ううん、わたしは……生物学だったから、ほとんど……」
「そうだよね。そもそもふつうは法律なんて多くのひとが関係ない……だからソーシャル・プロフェッサーという職業だってあるんだし」
「……そうね」
わたしは、そこでなぜかそっと笑ってしまった。……安心させたかったのかもしれない、もしかしたら、だけど。
「……知らない言葉や概念が、出てくるかも。でも、そうしたら、……覚えて。僕の言ったこと、教科書みたいに暗記して。……できるね?」
できるかな、とか、やってくれる? とかではなく、できるね――シュンはそう、わたしに尋ねてきた。
ちょっとシュンらしくもない言いかた、とくに、そんなの、……あんないじめられっ子だったシュンが、
いま、いよいよ走ることがおぼつかなくなって、ただただ前に進む意思だけが先行しているかのように脚がもつれて、それでも進もうと、進もうとして、……倒れそうなのにこんなにいろんなことをわたしに語りかけて、たぶん、――お願いまでしてくれる、
わたしに、……人犬のわたしなのに、このひとは……。
だから――わたしは唇をきゅっと引き結んで、このひとをつよく見上げて、うん、とたしかに発語した。
「やるわ」
やるもの。シュン。
あなたの、ことを。あなたの、ためにもなることを。
わたしのためにこんなふらふらになって、……人間未満にさえもされかけたあなたが、
もし、ほんのすこしでもわたしの力を必要とするのなら――
できるとか、できないとかじゃないの。
……できなくっちゃ、いけないの。
だから。やるの。
わたしは、……シュンのために。
わたしに、こんなわたしにできることが、たとえなにかたったひとつでも、あるのなら、やるの、ねえシュン、まかせて、まかせてね、――あなたはほんとうにがんばった。だから。
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