走る

 シュンは、走る。

 走る走る走る。


 とっぷりと日は沈み、新月が出たり出なかったり、だからやんわりとした街灯の明かりしかない、

 もう人間社会としてはかなり遅い時間なのかもしれない、通行人とはひとりもすれ違わない、

 このあたりに住んでいるひとで日が暮れてからお仕事をするひとなんてほとんどいない、たいていみんな朝に出て、夕方とか、えらくなれば午後のおやつの時間には帰ってきたりもする、


 それゆえか。

 こんなにも閑静な、社会評価ポイントの平均水準のかなり高めな住宅街を。

 

 シュンはわたしを軽く片脇に抱えたまま、

 走る、走る走る走る。



 ……わたしはと言えば、シュンの腕にすっぽりと包まれて、その首すじや肩にせめてと爪をひっかけてしがみつきながら。

 人間というものの駆けるスピードに、びっくりしっぱなし。


 いまのわたしが全力疾走したところで、どう考えても、この速さは出ない。

 もちろん、わたしだってかつては人間だったのだから、男の子であるシュンほどではなくてもそれなりの速度で走れていたのだろう――でも、でも、……そんなのはもうほんとうに前のことに思える。



 そう、

 わたしではけっしてかなわない速度で、シュンは、――ひたすらに駆けていく。

 住宅や街頭がおんなじペースでのんのんのんのん続く住宅街を。

 どこへ続くとも、どこへ行けるともあきらかではないこの巨大な一本道を。




 走る――。




 景色は、なかなか変わらないんだけど。

 ……シュンは、全力で走っていたのだろう。

 やがては、息がすこし切れてきた。

 ただ必死にしがみついていたままのわたしは、顔を上げてシュンに言わずにはいられない。


「……どこ、行くの? 走るの、速いね……だいじょうぶ?」

「……ああ、まあ、だいじょうぶだけど、日ごろの運動不足がたたってるな、これは……」


 そうは言うけど、……こんな全力疾走をしていたら、それはそうなるものだと、わたしは思う。


「でも、なるべく離れなくちゃ……」

 シュンは呻くように、ひとりごとみたいに言った。

「南美川さんの、お父さんとお母さん。――追いかけてきたら、大変だよね?」

「う、うん……それは……そうよね……」


 情けない。そうよね、とか言うことしか、わたしにはできない……。


「……だから、なるべく、遠くに……せめてこの地域を抜けて……こんな格好でも、南美川さんがいても、どうにかなるところ……どうにかなるところを……」



 いまさらだけど、わたしはそこでとってもはっとした。

 そうよね、……いまのシュンはおとななのに高校の制服を着ているし、おまけにかなり汚れてしまっている、

 もちろんわたしは事情を知っている、けど、……知らないひとが見たらどう思うかっていうのは、べつだ……。あるいは、あるいは、――不審者に見えてしまうかもしれない。



「……それに僕は社会評価ポイントもそんなにないだろ……まだ返済中なわけだし……まだまだ……ぜんぜん……」



 シュンは、なおも呻く。



「……社会評価ポイントの高いひとたちに、このひとが好きでこうしたんですよなんて嘘つかれたら、僕は、一巻の終わりだ」



 ……それは、わたしにはたぶんそういうことだってわかった、

 南美川家がシュンのことをそうやって偽って語る可能性――。



 そうよ。……そうよね。

 いっしょにいるとついつい忘れちゃうけど、あなたは、そうよ――社会評価ポイントは、そんなにないはずなの。

 ……うちの家族よりも、ずっと、ずっとよね。


 ……劣等だとか、弱者だとか。


 ああ。シュン。……あなたはね。

 そういうことで、

 わたしの思いつきもしなかったことで、どれだけ、どれだけ、……傷ついたり悩んだりして、

 でも、でも、どれだけのことを経て、――いまはそういうおとなになったの?

 どうして? どうしてこんな人間らしいひとに、なれたの、あなたは――?



 シュンは呼吸を荒くさせている、笑みも見せないで、ただ暗い一本道のはるかゆくすえを見つめているかのような顔をしていて、

 南美川家での余裕とはうってかわって必死なようだ……。


「……だから……せめて、大通りに……ここは抜けなくちゃ……できれば……振興地下街まで行ければ、そうすれば、……紛れられる、どうにかなるかも、しれない……」


 振興地下街――ネネさんの研究所もある、ごみごみしてごちゃごちゃした、あのふしぎな雰囲気の、街……。





「……大通り……地下街……」




 シュンは、呻き続けながら、それでも走り続けた。

 ああ。――疲労がありありと浮かんでいる。

 当然よ、……当然よ。そんなの。


 ほんとうは、疲れているなんてそんな言葉じゃ済まされない――。





 だからわたしは無駄だとわかっていても言ってしまうのだ、


「……ねえ、シュン、無理はしないで、無理だけはぜったい、しないで、わたしはあなたが心配なのよ、」

「ありがとう、南美川さん。でも、……行かなくちゃ」





 走る、走る走る走る。

 シュンは、走るの。

 まるでどこまでもとも思えるくらいの気迫をもって。






 だからわたしは自分を憎む、……このひとの代わりにほんとうは走ってあげられたなら、よかった。

 わたしが、そういう存在であれば。


 せめて、せめて。

 このひとと手に手を取りあって、走ってあげられたのかもしれないのに――。

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