……だから、思い出してしまう。

 いまだって。



 狩理くんがいまここでしゃがみ込んで、ワンカップのお酒の瓶で煙草の火を消しているというただそれだけの、ふつうに考えればただ礼儀や作法のなっていないというだけのことで、わたしは大学時代のそんなエピソードや、……きっと狩理くんの気持ちさえも、鮮明に、そう鮮明に思い出してしまう――。



 ……不審者みたいなこと、するのね。

 それは、人間のころだってちょっと思っていた本音。




 けど、意味あいはまったく異なってくる――。




 狩理くんはもう一個プシュリとお酒を開けた。次はワンカップではない、缶のお酒、……チューハイのシリーズ、かな……。

 その隣にあるビニール袋にはまだまだなにかが入っていそうなこんもりとした立体感があった、狩理くん、――どこまで酔うというのだろう。




「……じろじろ、見てんじゃねえよ」

「でも、狩理くん、でもっ、」




 わたしはまるで人間のころとまったくおなじみたいな感じで言ってしまった、――じっさいのいまのわたしは人犬だし、シュンの、……このひとの胸に抱っこされている小さな小さな人間ではない存在だというのに、

 おんなじ立場だったときのように。

 この家のたしかに一員だったときみたいに。

 人間だったころとまるでおんなじように――





 言うのだ。






「そんなところで、お酒を飲まないほうが、いいと思う」

「……はあ? なんだよ。いまさらのように、お説教か?」



 そうよ。……いまさらよ。

 ぐっ、と怯む。けど、けど、気持ちのほうが、――言葉のほうが、止まらない。

 止まっては、くれない。……もうこんなところまで、来てしまっては。




 狩理くん。

 わたしも、あなたも、こんなところまで来てしまったの、だとしたらもう――。





「……そんなところで、お酒飲んでること、だって、おうちのだれも知らないのよね」

「ああ、知らねえよ。なんだよ? 見つかったらおおごとだ、ってか?」

「それも、あるけど……」





「……見つかってほしいんだ。っつったら、どうだよ」





 狩理くんは皮肉そうに自分を嗤うと、ふっと視線を落とした。

 チューハイを、ごくりとひとくち飲む。狩理くんはお酒が好きだ。でも、――ちっともおいしそうじゃなさそう。


 でも、酔っては、いそうなの。――たしかに。





「もうさ、俺なんてさ、どうせ犯罪者の息子なんだからさ」




 狩理くんは、空を見上げた。新月――さきほどは見えていたのに、いまはちょうどきれいにすっぽり、夜の分厚い雲に隠されてしまっている。

 今宵は、月の明かりが、……ほとんどなんの役割もなしていない夜で。




「わかってるよ。異常だって。……他人ひとさまんの玄関口にどっかり居座って、安酒と煙草を繰り返すだなんて、もう俺はおかしいんだなって思うもんな」




 でもな、と狩理くんは息をひとつ吐いて。




「……気づいてほしいのかもしれない」

「気づいて……? どういうこと、それ、狩理くん……」

「俺はどうせ犯罪者の息子で、ほんとうは人間の資格もないどうしようもないやつなんだって。……そしたらさ。俺なんて、おまえん家にいる意味も、価値も、なんもなくなるわけじゃん」



 もう、わたしの家ではないけど――そうは思ったけど、もちろん、言うのはやめた。

 狩理くんにとっては、……人間だったわたしのいたころの家は、きっとずっと永遠に、わたしの家。





「……見放してくれれば……」





 狩理くんは、呻いた。






「そうすれば、俺は」





 狩理くんは月の見えない空を睨み上げたまま。






「俺は」






 ……続きの言葉はすぐに思い浮かんだし、なんならいくつも出てきた。

 だから、だから、……わたしはそれらのどれも言わなかった。





 雲は流れる、夜でも流れていく。

 きょうはきっと風が強い。あの、はるか高みはすくなくともそうだ。

 けれども住宅街は閑静だ。ああ。なんでよ。だれが、どうして、――こんな社会をつくったの?





「……あのさ。峰岸くん」




 シュンが――口を開く。




「……あんだよ」

「その、チューハイ。ひとくち、くれないかな」

「……ああ?」




 狩理くんのドスの効いた声。

 けれどもシュンは臆することなく。

 わたしをしっかり抱き留めたまま、

 狩理くんの隣にそっとしゃがみ込んで、……チューハイをひとくち、もらっていた。




「……へえ。ジュースみたいな味がするんだね……もしかしてこれ、桃とか?」

「……きっもち悪いな、それ、俺が飲んでたやつだぞ?」





 あはは、とシュンは決まり悪そうに笑った。

 そして――わたしの口もとにも、缶の口を差し出す。




「南美川さんも、飲む?」

「え、えっ、なんでよ、わたしが……?」

「うん。おいしいよ。フルーティーな味がする」

「フルーティーって……」



 わたしはまたおかしくなってしまって笑ってしまった、ああ、――だからこのひとといるということはほんとにほんとに、ふしぎなの、

 だから、だから、……シュンが差し出してくる狩理くんのお酒を、そっ、と口にした。





 ……甘い。でも、爽やか。フルーティーだ、たしかに。桃の味も強く、する……。





「……おいしい? 南美川さん」

「うん、でも……お酒なんて、ほんとうに、ほんとにひさしぶりだから……人間だったころが最後だから……なんだろ、なんて言えばいいのかな……」


「そうか、そうだよな幸奈」



 狩理くんはまたしてもゆがんだ笑いを見せた。



「おまえは、もう人間じゃないんだもんな」

「ええ、そうよ、あなたたちがそうしたから――」




「……でもね、峰岸くん。このひとは、また人間に戻るから」




 シュン、あなたは、――またそんなことを。




「……はあ? またそんな寝言ほざきやがって……」

「ああ。そうかもね。僕はいつも寝ぼけてる気がするよ。……でもそんなの高校時代から、ずっとだ。

 だから」




 あんだよ、と狩理くんはまたも鼻で笑った。




「……南美川さんが人間に戻ったときには三人でお酒を飲もう。こんなかたちじゃなくて、もっとふつうの、あるべきかたちでね。……僕はアルコールはずっとトラウマだったんだ。でも、たぶんおいしい酒っていうのもあるんだろうな。だから、峰岸くん、……そのときにはお酒を僕にも教えてくれないか」

「おまえ、なんだよそんな、――飲みに誘うみたいな、」




「飲みに誘っているんだ」




 シュンは、きっぱりと言い切った。

 そしてよいしょと立ち上がる――。




「……行かなきゃだから、僕は南美川さんを連れて行くけど」




 狩理くんはすばやく視線をうつむけた。

 こっちなんか視界にも入っていないみたいに、缶を思い切り飲み干した。




「……次の同窓会は、飲み会で決まり。だね? だから、そのためにも、……あまり捕まるような真似をしないで」




 たぶん、それは、こんなところが南美川家のだれかに見つかってしまって、まずいことになっちゃうっていうことを――。




「それじゃ。……また」



 シュンは言うなり駆け足で南美川家の敷地をあとにする。

 歩きはじめたとき、人間の身体の二息歩行のあまりの速さにびっくりしながらわたしはそれでもひとつ言った、叫んだ、そうしてしまうくらいにはわたしの気持ちだって切羽詰まっていた、





「狩理くん! わたしとも! ――同窓会をするんだからね!」





 返事は、なかった。

 遠く遠く、あっというまに遠くなっていく南美川家。






 空を、見上げた。

 新月は、まだ見えない。

 けれども闇に慣れてきた目をようく凝らせば、――新月のそばの雲はたしかに淡く発光、している。

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