化ちゃん(1)近づいてくる足音
……真ちゃんは、そのままわたしを殴り続けた。
けど、
いつのまにか、わからなくなっていた――わたしが被害者なのか、真ちゃんが被害者なのか。
もちろん、いま暴力をおこなっているのは真ちゃんのほうだ。
けど、けど、――わたし以上に泣きじゃくっているのも、真ちゃんのほうなんだ……。
やめてほしかった。
痛いから、というのはある。施設の暴力のように制度化された痛みや屈辱ではなくとも、勢いまかせのぶんの痛さや怖さというのが、いまこの子には、あった。
けれどもそれというよりは、
妹が、つらそうだったから。
……どれだけ時が経ったのかもわからない。
真ちゃんのそつないはずのメイクだって、すっかり崩れてしまっている。
涙と汗と鼻水で、ぐちゃぐちゃで。……きっとお風呂に入ったほうがいい。そして、そのパステルカラーのかわいらしいお洋服も、洗濯をしたほうがいい。
わたしは、ここに来てからもちろん、お風呂に入らせてもらったことはない、服だって、もう着せてもらうことのない存在――だけれども。だけど、だけど、……ううんだからだよ。
真。真ちゃん。
ねえ、真ちゃん……。
……やがてどこか遠くからかすかな音がして真の動きが止まった。
それは、はるか異世界へと続く魔法の扉が開いたかのような音だった。
そして、あながち間違いでもなかった。
化の、帰ってくる気配だったから。この子にとっては、――決定的だ。
……スッ、と真は立ち上がった。
殴られていたさなかだったわたしは、ゴテンと不格好に体勢を崩す。
仰向けから四肢をじたばたとさせてようやく起き上がったときには、真はもう階下へと去ったあとだった。
……そして、そのあとも時間が経った。
人間にとっては貴重なはずの時間というものさえ、犬にとっては、――湯水とひとしい。
じゃばじゃば、じゃばじゃば、過ぎてゆくもの。
ただただなくなっていき、意味も価値もそこに見いだせずに、ただ、過ぎていくのを、
じゃばじゃば、じゃばじゃば、――耐え忍ぶもの。
……耐え忍べるぶんだけ、わたしはまだ人間なんだ、ってことなんだろうけれど。
ほんとうに、ほんとうに犬の心への加工が成功したならば、……わたしそんな仔はたくさん、見てきたけれど、
きっと、そもそも時間なんて感覚はなくなるんだ、あるいはどうでもよくなるんだ――。
……ごはん、食べて。いちにちの大半を、うとうとして過ごして。
ときどき、ご主人さまやその家族に、かまわれて。遊んでもらって。嬉しくなって、尻尾振って。
でも人間というのはすぐに去るから。
また、ごはん、食べて。いちにちの大半を、うとうとして過ごして……。
……犬なら、それが、当たり前の日常のはず。
けど、わたしはまだ――時間の感覚というものをもっているし、
そして、
「……シュン。お熱、だいじょうぶ? 生きてる……? ……ごめんね、脚かざすわね、……臭いかもしれないけどごめんね……。……あ、そよそよ、……してるわね、うん……じゃあ、疲れているのよね、いいのよ、眠ってて、あなたは、あなたは、」
なんと言えばいいのだろう、
「――がんばったから、」
ああ、そんな月並みな表現しか出てこなくって、こなくって、
「眠れるときには眠っといてね、犬になったら、」
睡眠という人間にとっては当たり前の平穏さえも、
「……人間の都合でぜんぶがぜんぶ、変わるんだからね……ぐしゃぐしゃに……」
ああ。
シュン。ねえ、――シュン。
ほんとうに――あなたまでもが人犬になって、しまうの?
「ちょっと、ほっぺた舐めるわよ、……んっ、……んん、ちょっと下がってきた、かな、はい、汗……舐めとってあげるわ……。……どう? ちょっと、楽になる?」
けれどもわたしのできることは、そんな、犬らしいことしか、――なくて。
……わたしの耳はピンと右だけ直立して敏感に音を拾った。
ぎっし、……ぎっしと階段をのぼってくる音、ああ、間違いなく、
化、――いつのまにやら不可解な化けもののようになっていた、弟。
あるいは――化は化としてこの世に生まれた瞬間から、すでにそうだったのかもしれない、けれども。
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