姉として
……ちょうど最後の黄色めのソレが出て、切ることができそうになるころ、
「あら。南美川さん家の娘さんじゃない」
そこにいたのは、レースたっぷりの淡いピンク色のワンピースをでっぷりと着た、……笑顔のおばさんだった。
……わたしも思わず顔を上げちゃったけど、まさか、わたしのことじゃない。間違いなく、真のことだ。
だれ、だっけ……でもたしかに近所にこんなおばさん、いた気がする。着ているものや態度が、上品で……ボランティアや募金をしまくっているから、社会評価ポイントにも、文句のつけどころがなくて……ただ、ちょっとおせっかいでうわさ好き。でもそんなおばさんなんて、ここらへんにわんさかいたから――犬になったあとのわたしは、もうそんなの、……覚えてなかった。
真はすっくと立ち上がる。……わたしのほうからはスキニータイプのジーンズを着た細いおしりしか、見えない。
「こんにちはああ。
「はあい、こんにちは、南美川さんの……ええとお……幸奈ちゃん、でしたっけ? お名前?」
「……違いますよおお。えへへ、おばさん、いいかげん覚えてよっ、こないだおかしいただいたときにも言ったじゃああん、そっちはもういないんだってば、あたしい、真ですううっ」
……真は、気持ち悪いほど、こびへつらって、にこにこしている。
いいこ、演じてる……。
……たしかに。
ご近所さんのネットワークは、うちのあたりはすさまじかった。
わたしは、というと、
ご近所さんの愛想だけは満ちた社交辞令のひとつひとつを、本音の褒めで受け取ってた、あのころのわたしは人間はすばらしいって心底思っていたんだから、馬鹿よね、……だからいまはもう、ご近所さまのわたしへの本音を想像するだけで、怖い。
「ああー。そうだったかしら。ほら、あなたたち姉妹、似ているからねえ……」
「えへへえ、そうですかああ? そうでもないですよおっ。それだったらあたしと弟の化のほうが、ふたごだし、似てるんじゃないですかっ」
「……だってほらあなた。化ちゃんは、別格じゃない」
あ――。
「化ちゃんのことはだいじょうぶよみんな知ってるわ、このあたりで知らないひとなんていないもの。……南美川さん家は化ちゃんがいてよかったわねって、みんな言ってるわよ。
だっていまどき哲学者でしょう? それも世界観を整理するなんて。ねえ? 化ちゃんは天才ってものなのかもね。
ねえ? 妹さんも、そんなお兄さんがいてよかったよね」
「……あたし、姉です、化の姉」
「あはは。でもふたごだったら、おなじようなものでしょう。
あら、ほら、そんなことよりその仔。かわいいワンちゃんねえ。おうちで、飼いはじめたの?」
わたしはそのままの姿勢でおばさんを見上げて、なるべくきょとんとして頭悪そうなただの犬に見える表情をつくるようにつとめて、おまけとして、尻尾を二、三回、人なつっこく見えるように振った。……無用なトラブルをここでこれ以上、避けたい。
おばさんはわたしのその動作を見ると、くくっと小さく笑った。……たぶん、ただとりあえずわたしのことは尋ねたというだけの、ことなんだろう。
「……うん。飼いはじめたの。化が、わんこほしいって言ったからさああっ」
「そうよねえ。あんなむつかしくてすごい勉強をしてるんだもの。わんこの一匹くらい、化ちゃんは飼う権利があるわ。……それが人犬でもね」
「そおおおおおですよねええええっ。だあああってえ、人犬ってえええ、飼うのにい、ちょー社会評価ポイントいるからっ。あたしも知ってますうう……。
……ねええ。でも。差三枝のおばさん。この犬の顔、見たことない?」
「ええ? ぜーんぜん。もしかして前、化ちゃんが連れてたりした?」
「……ほんとうに、覚えてもない?」
「え、……やだあ、ふふ、真ちゃん……どうしました?」
「あ、ううん、……なんでもないですうう。ごめんなさいい、いまちょっとあたしぼうっとしちゃったみたいだからっ。
引き留めてごめんなさいっ。もう行きますねええ。あー、こんな気持ちいい朝に、おしゃべりできてよかったですうう!」
「そうね、朝はやっぱりこうやって穏やかにはじまらなくっちゃ」
……穏やかに。
穏やかに――?
……真が後ろに回した腕はもうプルプルと震えてしまっているといいうのに。
「ね、差三枝のおばさんっ、旦那さんと息子さんにもよろしくねっ」
「はあーい、言っておくわ、ありがとう。あなたもお父さんとお母さんと化ちゃんにもよろしくお願いね」
「うんっ。差三枝のおばさんが言ってたって、ばっちり言っとくからねっ。またこんどおいしいおかし、くださいねー!」
「はーいはい。……真ちゃんはいつまでもかわいい子どもで、いいわねえ。なごむわあ」
……そう言って、差三枝のおばさんとやらは、レースを揺らして去っていった。
すっかり見えなくなったあたりで、真は、……両手の拳をかたく握ると、そのまま腕を大きく振った。
「――クソッ! さっさと高血圧で死ねよ、淫乱ババア! アンタがクッサい不倫してることなんて、ご近所ぜんぶ知ってんだよ! 死ね、死んじまえっ、……化のことなんかなんもなあああんもわかんないくせにっ、人間未満のクソババアが、息子受験落ちろ早くっ、ジジイが事件起こしてもいいわあ……人間未満に、人間未満に認定してやりたいっ――ああもおお!」
真はちょっとこっちが心配になってしまうほどの勢いでそう叫びながら、電柱モニュメントをグワングワンと蹴り飛ばしはじめた、わたしは真の名前を呼んでその足にすがろうとする、勢いあまってそのまま蹴られた、でもわたしは真の、妹の足にすがろうとし続けた、
真にはただただ蹴り飛ばされて、モニュメントとおなじで蹴るためのサンドバッグと化してそれだけのことだったけど、
わたしはきゃんきゃん吠えるみたいでもこの子にすがるようにうったえかけるのをやめなかった、真ちゃん、真ちゃん、……やめて、って、
いまなら、――この子がこんなに傷ついているいまならわたしはこの子の姉になれるかもしれない、そんなことをこんなときに思うわたしはたしかにほんとうに最低だって――そう、自覚はあったのだけれども。
そして、わたしの姉としてのそんな思いは、……遅すぎるってことだって――。
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