いちごをあなたにあげたのに

 ……次の日の、朝。

 わたしの家だったおうちでシュンとふたつ、夜を越したから――二日、経ったはずだ、……シュンのお休みが日曜日で、その日に来たんだから、きょうは、ええと、……火曜日のはず。



 森林公園が近いので、スズメの鳴き声が聞こえる。

 朝。朝だ。弟がうっとりと言っていた言葉を借りるなら――すばらしい、朝だそうで。


 そんなにすばらしいとかいう朝、社会評価ポイントが相対的にとても高めな住宅街のこの地域の、歩道専用の緑多くゆったりとしたこの歩道で、


 わたしは四つん這いで裸体と犬の部分の恥ずかしいところを、朝日のもとで晒け出し、

 罵倒を受けながら、強すぎるちからで引っ張られながら、

 つまりわたしは――妹に、おさんぽされてた。



「……う、ううっ」



 リードで引っ張られている。強引に。さっきから首が絞まる。苦しい。わかってるはずなのに、やめてくれない。


 道には、このあたりで暮らす社会ポイント高めのひとたちが、すれ違うくらいにはそれなりに歩いている。通学や通勤のひともいるだろうし、わたしみたいに、……犬のお散歩のひとも、いる。


 種としてのイヌという犬もたくさんいたし、けどそれとおなじくらい人犬の子もたくさんいた。ふつうの街よりも人犬を多く見かけるのは、気のせいではないのだろう。人犬のほうが、飼うのにコストもかかるし、条件として社会評価ポイントが多めに必要なはず、だから。


 そんななかで、一匹の人犬という犬種の犬にすぎないわたしのことを、だれも振り向かなかった。ごく当たり前のように、そこにいる犬として捉えていた。


 ……シュンともお散歩はした。

 けれども、シュンはわたしがお散歩が嫌いなことをわかってくれていて、気をつかってくれた。それでもどうして散歩の時間を続けたのかはついにはっきりとは聴けずじまいだったけれど――。



 真がまた苛立ったように振り向いた。


「ちょっとおお、せかせか早く歩いてええ? ノロいんだけど。ホントわんこのためだけに人間さまは待ってらんないんだから早くしてっ、駄犬っ」


 真はすっかり姉であるわたしのことを、駄犬、と呼ぶようになってしまった。


 砂や小さなでこぼこの感触が、前足と後ろ足の合計よっつの肉球のふにふにしたところに食い込む。

 さすがに犬の肉球は外でも四つん這いで歩けるようにできあがっている。人間の手のひらだったら痛くて痛くてかなわないだろう。でもわたしの手足は犬だから。犬だから。だから、歩けてしまうのだ。

 痛くない。その事実は、わたしのこころにとってはこんなにも、痛い。


「……う、う、まって、まってえ、はやい、はやいの」

「待ってらんないっ。あー、ほら、恥ずかしいっ」


 真はもっともっと歩くスピードを速めた。その手のリードにつながれた首輪は当然もっと絞まる。苦しい、苦しい、……ほんとうに苦しい。


「ま、まってえ、う、ううう、……真ちゃん、ごめんね、まって……」

「はあ!? だからなにその呼びかた! 犬のくせにあたしのことちゃんづけで呼ばないでっ、この駄犬っ、なんかい言ったらわかるのっ」

「……真、ちゃん、真ちゃん、ごめん、ごめんね、……謝るから、いままでのことも、ぜんぶ、お姉ちゃんが、悪かったから……」


 真はぐいっとわたしのリードを引っ張った。あうう、とわたしは思わず声を漏らしてしまう。

 そのまま、道のはしに寄った。……古きよき電柱モニュメントのとこ。

 ちょっとうえを向けばポスターが貼ってある、……たしか、犬の習性的に仕方ないから公共電柱モニュメントとしてここはそう用いるんだ、定期的にクリーンにしている、って、……人間だったころに視界の端で見たことがある、

 ……それは種としての犬のオスだけで、人犬は関係ないはず。だけど。


 わたしは、そのふもとしか見えない。四つん這いだと。……グレーの電柱には濃いシミもたくさん、あって。

 当然、嫌な、予感が、する。


「はい、じゃあ、姉さん。……すること、わかるでしょ?」


 わたしは涙目で妹を見上げた。妹の目線は、どこまでも高い。そしてその視線はどこまでも冷たい。


「アンタのおしっこ処理すんのも簡単じゃないの。外でできるかぎりしちゃってよね」

「……やる、ことって、それ……?」



「違うでしょっ」



 真は小さくそう言うと、しゃがみこんでわたしの頭を髪の毛ごと鷲掴みにした。

 う、うえぇ、とわたしが赤ちゃんのように泣きはじめると、髪の毛をもっと強く引っ張る。



「……謝ること。でしょおおお……?」

「……う、でも、いま、……おしっこしなさいってゆった……」

「だからしながらすればいいじゃん、そんなの。ホントに頭つかえないんだねアンタ。まあ犬だから当然だけどねええ」



 ……やだ……。

 それは、そう思った、そうだよ、だってわたしは――人間だもの。

 ううん、人間じゃなかったとしても……人間の心、もってる、



 ううん、ううん、それ以上に、……わたしを人間だと見てくれて扱ってくれるひとが、いる……。



 ……そっか、だから……。

 そうだよね。そのひとの、ためにも、


 ご機嫌――とっとかなきゃ、いけないのだし。



 すっ、と、

 ……わたしは四つん這いのまま、準備をした。

 いやだよ、そんなの、……いやだけど……。



「……ご、ごめんね」



 ……ジュワッて感覚が、する。

 ちゃんと、電柱にかかるように……そうじゃないと、ご近所迷惑だから……知ってるから……。



「……真、ちゃん、う、ううう、ごめ、ごめんねっ、……ごめんね……」



 真は答えずに、すぐそこにしゃがみこんで両方のほっぺたに手を置いて、まるで恋する少女のように、にやにやわたしが電柱に、……しているのを、見ていたの。



 ……わたしはどこまで謝ればいいの?



「……真ちゃん、ごめんね、う、……あうっ、ごめんねえ……」

「なああああにについて謝ってるのかなああああ?」

「……あなたの、いちご、とったこと」



「……はああ?」



「……あなたにいちごをあげればよかった。

 あなたが、そんなに、いちご、好きって、知ってたら」



 ……ソコからも目からも液体があふれ出る。そういえば、目から出るほうのこれは涙とか呼ばれてけっこう美しいものっぽいのに、どうしてコッチは、汚いんだろう、……汗も涙もおしっこもけっきょくおんなじなんでしょって、わたし、……犬になって自分の体液まみれになること増えて、そう思うこと増えたんだけれどなあ……。



「……あなたにいちごくらいいくらでもあげた、のに……」



 ……ああ。そろそろ。出し切るな。……生きるための、外に出てしまえばただただ汚く臭く惨めな、みず。



「……知ろうとも、しなかったんでしょうが」



 真は顔をそむけた――そのときつぶやいたその言葉は、たしかに、……真実だった。

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