こころをひらいて

「……シュン。あなたは、」


 わたしはシュンの腕のなかで、気づけば吐息とともに言っていた、


「あなたは、ほんとうに、人間なのね」

「え? ……なんですか、あ、……なに、いきなり」



「思いやりが、あって。ひとのこと、考えられて。

 なにより、他人ひとのことが、……ちゃんと人間ひとに、見えて。


 ……つらかったでしょう。それだと。わたしの、ことも。

 きっと、あなたはいじめっ子のわたしのことも、人間として、見ていてくれたのでしょう」



 だから、……わたしなんかとおはなしできたことで、こんなにも、喜んでくれるのでしょう。


 わかる。わかるのよ。わたしには。あなたの、感情の動き。

 ゆがんだかたちであっても、ずっと見ていたから。

 高校時代、そうね、わたしは徹底的に間違ったかたちではあったけど、


 でも、二年生の始業式のあの日から、そうよ、

 もしかしたら婚約者の狩理くんよりも、ずっと、



 わたしは、あなたをみつめていた――。



 ……だから。わかるの。

 あなたの、ことは。



「ありがとう。ご家族のひとのこと、おはなししてくれて。

 工場長のお父さん。優しいお母さん。バスケットボールをやってる空さん。ちょっとわがままな、海ちゃん」



 ごめんなさい。わたしは、シュンの家族に対してほんとうにそう思う。

 まずはわたしはシュンを壊した。

 そして次には忘れて、


 いま、あげくのはてには、……わたしの家庭の事情でこのひとは人犬にされてしまう、のだ。



 ごめんなさい。

 ごめんなさい。



 会うことは、かなわないだろうけど。



「……あなたの家族はすてきだと思う」



 ……あなたの家族も、きっとあなたのことをよく知っているのでしょう。

 話を聞いたかぎりでは、それは、……きっと高校生のときのこのひとが思ってる以上に、

 このひとは、家族に育てられて、愛されて、……ちゃんと、人間としてどうするべきかを教わった。



 あなたが、おとなになってから家族と距離を取るという事実をも、たしかにわたしは見ている――。

 でも、それだってきっと、わたしのせいなのだ。

 推測に過ぎないけど、そう考えるとわたしにはすごく納得ができてしまう、もともとはごくふつうの男の子であったはずのこのひとを、来栖春という充分人間であるこのひとのことを、高校時代に気になって、変なかたちでつまみあげて、嘲笑って、馬鹿にして、いじめはじめて、いじめて、……いじめていじめていじめて、

 ひどいこといっぱいして、人間としての尊厳を奪って、

 自信もなにもかもなくさせたのは――まず、間違いなく、わたし。


 そのせいで、ごくありふれていて少々の問題があったとしても、和やかで穏やかでまともだったはずのシュンの家庭は、

 シュンの、……髪の毛を焼かれたりするまでのあきらかないじめという巨大すぎる問題で、なにか軋んだ――そう想像することは充分に可能だ、あのころのわたしには無理だった、でも、……いまのわたしになら。



 そう、考えると。

 ああ。



 わたしは、どれほどの影響を、来栖春、あなたという人間に対して与えたのかしら。

 高校時代の二年間だけに留まらない。それからもきっと、ずっと、ずっとこのひとはわたしのことを忘れらなかったのだろう。わたしは、ごめんね、……もう国立学府のキャンパスライフが楽しくって楽しくって、あなたのことなんて高校のクラスメイトと会うときにちょっとネタにするとか、それだけの小さな存在に、……なっていたのに。

 そのあと、わたしがあなたのことを思い出したのは――人犬に堕とされたあとの調教施設で、だ。

 あのころわたしはあなたの思い出を追い続けた。けど。


 きっと、あなたはもっと、もっとずっと、わたしの影響のもとに――いたのよね。

 ごめんね、ごめんね、ぜんぜんそんなこと、わたし、……思ったこともなかったから、




 だって、そうでしょう?



 だから、あなたは――ペットショップにいたわたしを、みつけてくれたんでしょう?




 ごめんなさい、ごめんなさい、謝っても謝りきれない、つぐないきれない、

 このひと、を、……わたしを救ってくれたこのひとを、




 人間として駄目にしたのはわたしなのだから。

 いちどではない。なんども。なんども。壊して。忘れて。……巻き込んで。




「……ごめんなさい」



 気がつけばわたしは熱すぎる涙を流していた。

 シュンはおっかなびっくり、でもだいじょうぶとかどうしたのとか声をかけてくれるし、わたしのことも抱きしめてくれているままで。


 あなたは、わたしにあんなことをされていたときの心なのだ。

 思い出したらいまはわたしのほうが泣いてしまいそうな、酷くて、惨めで、極まって滑稽で、哀れな、そんなことをされていたときの心なのだ。


 最初はたしかに警戒していた。おっかなびっくり。当然よ。それだけのことをわたしはした。

 けれどもわたしが、……あなたを人間だって扱うわたしだって知ると、

 ちょっとずつ、おずおずとでも、こころをひらいて――。



 ……シュン。あなたは、いったいどれだけすごいの。




 ……だから、わたしも伝えたい。

 わたしがシュンに最大限こころをひらいていること、

 伝えたい。伝えたい。




 調教施設で教え込まれていたときにはかたくななまでに躊躇していたこと。

 拒否して、けっきょくはソコを掴まれて、ぐいっと引き出されていたあの痛み。

 そうするときには、いつだって自分が酷くて惨めで滑稽で哀れで涙が、壊れたように流れ出た。



 もちろん、いまは躊躇などない。

 わたしは――自分の舌を、差し出した。




 ほっぺたを、舐める。舌を出し入れ、なんども、なんども、……ここだけは調教施設で教わった通りの、人間がそうされて気持ちいいってされている舐めかたで、ね。

 髭の感触が舌のうえでざらつくけど、それさえも味わう。


 ……ちょっとなつかしいな。シュンの、お肌の味……。



「シュン……? ね、シュン、なんでなにも言わないの……わたし、ぺろぺろしてる、あなたのこと、ぺろぺろしてるのよ……」



 わたしは目を細めて舌を大きく出した、



「あなたのこと、大好きだから。……こころ、ひらいてるから」



 大きくひと舐めしてみる、すると、ん、と思わず声が出てしまった、




 シュンがふいに反応してわたしを突き飛ばすかのようにして、身体を離した。

 その両腕で肩を掴まれているわたしは、きょとんとしてしまう。



「や、やめ、て、……そこまでにしてっ」

「……あ。ごめんなさい。いや、だった?」

「嫌っていうか、……嫌っていうかその、」

「……あなたに、わたしのこと、伝えたくてそうしただけなの。悪気はなかったの。ごめんなさい」




「……もー、我慢しきれなくなるでしょー……」




 シュンはここにきてからたぶんいちばん幼い声で、とても小さな声でそう呻いた。

 そしてまるで表情を見せまいとでもするみたいにごろんとわたしに背を向けてしまうから、わたしは必死で追いかけて肉球や尻尾でぺちぺちシュンを叩く。



「我慢って、なにが? なにが?

 教えてよ、おはなししようよっ、言ってほしいの、ごめんね、言ってほしい」

「……わざわざ言うようなことじゃないので、いいです……」

「あっ、どうして敬語に戻るの!」

「いいです……ちょっともう、ほっといて、危ない……」

「危ないって、なにが? 教えてよっ、言ってくれなきゃわからないから、おはなししよっ――」




 ……あれ、おかしいな。

 いつのまにやら、わたしもシュンも、ちょっぴりだけれど笑ってしまっていて。




 こんな、状況で。

 ああ。

 地獄への前奏曲に過ぎないってことかな――でも、それにしては、……やけに楽しいね。





 楽しいね。シュン。だいじょうぶよ。

 あなたには、言わないけれども、……わたしがまもるよ。





 おそろいの、人犬の身体になっちゃったら、

 どうすればいいのかよく教えてあげる、シュン、……つがいでいいからそばにいよう……。



(第七章上、おわり。第七章下に、つづく)

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