視線
シュンはお熱でつらそうなとろんとした目で、でもたぶん、いままでよりはしっかりと――わたしのすがたを、見つめてくれた。
そして訝しげに眉間に皺を寄せて、戸惑いがちな唇でわたしに、問いかける。――下位者としての遠慮を、当時みたいに、もちながら。
「……いぬ……?」
「そうよ。ほら……」
隣に寝そべっているわたしはそう言いながら、シュンのほっぺに右の前足の肉球をぺとっと押しあてた。
「これ、……犬の手。でしょう? ……いいわよ。気になるなら、さわってみて……」
シュンはますます眉間の皺を深くすると、おそるおそる、自分の頬をたしかめるかのような手つきで――わたしの肉球をわたしのそれよりずっと大きな、シュンの成人男性としての手で、さわった。さぐるように……そしてその手で、ぎゅっと包み込むように……
ふにっ、として。
わたしは思わずあっと声をあげてしまった、
「……あ、う、……あっ」
あ、そこ、肉球の真ん中は、……ちょっと、痛い。なんていうのかな、神経がとても集中してるから、あんまり力を込められると、ぎゅっとして、ほんのちょっとだけびりびりするみたいに痛くて……。
シュンは、……おとなになってわたしを飼ってくれたあとのシュンは、わたしの身体の犬の部分のさわりかたをもう覚えていてくれたから、いまわたしは……すこし油断してたみたいだ。
そうだよね、そうだよね、わからなかったらそうやってさわっちゃうわよね、肉球の、柔らかいとこ、ふにって強く押したくなるものね――。そう思ったからわたしは痛いっていうのをかろうじて堪えたのに、
シュンのほうが、びくっとしてた。
「あ、ご、ごめん……あ、の。痛いの。そこ」
「……そんなじゃ、ないけど、尻尾引っ張られるとかよりは、ぜんぜんだけど……」
ああ、――答えになってないよわたし、それじゃあ痛いってことじたいは肯定しちゃってるじゃない――でも、でも、……どうにもうまい言葉が見つからないの。
シュンは苦しそうに喘ぎながらも、この部屋に来てからはじめて、……わたしの全身を上から下までちゃんと眺めて、くれた。
「あ、あの……その」
「なあに、シュン。いいよ、なんでも言っていいのよ……」
「……ほんもの、なんですか」
「……なにが?」
わかっているけどわたしは――そんなふうに、返しちゃって。ほら、シュンがまた、……わたしのそんな逐一の反応で、びくっとしてる、脅えちゃうっていうのにさ……。
「そ、その、……手、とか、耳、とか、尻尾……? とか……」
「うん。ほんものよ。……ほら見て、こんなわたしを」
わたしはそういうと、……こんどはシュンの目の前でおすわり、した。
とても犬らしいこの体勢……わたしは尻尾を、右に、左に、ぱた、ぱた、振った。
もういっかいベロもちろりと出してあげたのは、……サービスだよシュン、こっちのほうがもっと犬らしく見えるでしょう? って……。
……ね。わたし、とっても、……犬でしょう?
ぱた、ぱた。ぱた。……ぱたぱたぱた。
くの字に倒れ伏したままのシュンはぼうっとしたように、でもわたしからいっさい視線を逸らさなかった。
……やがて、つらそうなのに、這いずり回るかのように両手を支えにして、体を起こそうとした。……けど、できなさそう。たぶん、そうとう……体調が、悪いんだ、……高熱だって一目でわかるし、わたしの体温のつねに高い肉球でだってその熱さは伝わってきたんだもの……。
……だからシュンは中途半端に胸部を浮かせた格好になった。
その体勢も懐かしかった――たしかにこのひとは這いつくばるとき、ときにこうやってすこしでもと言わんばっかりに上半身だけでも浮かせて、じっと、こっちをうかがっていたの……。
……ぱた、ん。
わたしは、尻尾をおろした。
「……どうしたの、シュン」
「……でも、南美川さん、ですよね」
そう言うシュンは――まっすぐ、わたしを見上げていた。
犬の背丈の、わたしを。……這いつくばるくらいの高さだから、こんなわたしにだって彼は視線を持ち上げねば、ならない。
そして卑屈にうかがうようでいてなんでだろう、彼がいつも瞳にともしていたその、暗いなにか、
当時はそれを見るとシュンのくせにナマイキってわたしがいつも言ってた、……ほんとはわたしがなにひとつわかってなかったその、なにかの、感情が、
いまも――このひとの瞳に、宿っている。
「……なみ、かわさん……ですよ、ね」
……再会する前は、いつもだったし。
再会してからも、ときたまシュンはこの目をしていた――とくにわたしのことをなんだかとても強く抱きしめたりとか、……あとは犬のようにふるまってよってなんでだか向こうから、お願いしてくるから、わたしが、従っていたときも、あなたはこういう目をして――
「……わたしは、いまは、……南美川幸奈じゃないのよ。犬なの。人犬加工の、……一匹の犬なのよ」
言い聞かせるようにわたしは言ったのに、
あなたはその目をしたままで、首をふるふる、それこそ子どものように横に振って、……振って、
「……南美川さん、ですよ、間違いない、です、……こんどは犬の、コスプレ、ですか。それとも、なにか、僕を、また――僕はまた――」
シュンは、そこで激しく咳き込んだ。……わたしはシュンに近寄って、前足だけでも気休めであっても、その背中を、トントンと叩く。
そうしたら、ジッ、とシュンの目に宿るそれが――より昏(くら)く、強さを増した。至近距離で――
「……あなたは南美川さんでしょう……」
そんなことだけ、すらすらっとさ、いちども噛まずにさ、……言っちゃってさ、
ねえ、シュン、
……わからないの。あなたが、なにを考えているか。
あなたはわたしより劣等で、ずっとずっと下位存在だなんて、そうよ、再会するときまでわたしはずっと調教施設でだってそう思っていたはず、なのに――
「……僕、には、わかりますから。南美川さんが、南美川さん、なんだ、って――僕には」
……あなたにはほんとうにわからないところが、あるよね。
そうよ、だって、――人犬になったわたしをそれでも人間のころとおなじくかわいいって言ってくれたの、シュンは、……人間だったころのわたしも人犬のわたしもかわいいって、言ってくれるものね。
どうして。
いまさらのように、叫びのようにわたしは思う。
――苦しむあなたの背中をトントン叩くだけしかできない、無力な犬のわたしは、ただ、ただ、……涙を堪えて心のなかで叫び続けるの。
――ねえ、ねえどうしてなの、シュン。……シュン。
あなたは劣等だったし、あなたはわたしにいじめられたの、それなのに――
どうして、あなただけは、人間のわたしにも人犬のわたしにも、おんなじ視線を向けてくるの?
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