わたしは柴犬
しばらくシュンの涙と鼻水と汗を目をつむっていっしょくたに、ぺろぺろ、舐め取り続けて、
わたしは、やがて、その素肌から口を離した。ねばっとして透明な粘液が糸引いた、それはわたしの唾液なのかシュンのお顔から出てきていた体液だったのか、わからないけど、……たぶんどちらも混ざっていた。
わたしは、ちろりと、舌なめずりするみたいにベロ出して、自分の口まわりをいったん拭き取った。じゅるり、としてた。
ひとのお肌を舐めるのは、人犬だったら当たり前のことなの……舐めたあと、自分の口のまわりをね、犬の毛の前足で拭うより、こっちのほうがよっぽどいいんだよ。
シュンは気がついたら、く、の字みたいに身体を折り曲げている。
……ズボンのあたりをかばいたいんだなって、わかる。両手も、……そのあたりにそっと添えているし……。
それでも、そこが、……湿っちゃってることはさすがに、わかる。
それ以外は、ぐんにゃり脱力してて……出したいもの、出せたから、きっと楽にはなったのだろう、
でも……気持ちは、もっとつらいかもしれないの……。
シュンは赤くなった目でわたしを憎らしそうに見ていた、そう、……高校のときみたいに。
さぞかし憎かったのだろう、でもなにも言えないんだ、このひとは――ずっと、こんなにも、視線でもの語っていたというのに。
……シュンは、自分ではあまり表情に出ないと思い込んでいるようだけど、それはいまもそうみたいだけど、
じっさいはすごく顔に出るひとだ――たしかに言葉は不器用なほうなのかもしれない、……高校時代はおとなのシュンよりずっとそうだった、けど、
その表情が、饒舌だから――わたしだっておもしろくなっちゃって、たくさん、いろんなこと、したくなっちゃってさ……
……ううん。だから、違うでしょう、わたし。
そうやってまた理由をつけようとしているんだ。こうだったから……ああだったから……。
そのすえすべてに愛想を尽かされ、人犬の身分に堕ちたのは、――ああ、そうやってわたしが反省というものがとても下手だってことも、きっと、あったのよ……すごく。
……だから。
だから。
せめて、いまは。いまだけは。
「ねえ、シュンっ」
わたしは、あえて、……ばかみたいに明るくそう言ってみた。
横になってる、というよりは、……くの字型に倒れ伏しているといったほうが正確な格好の、シュン。
発熱がつらいのだろう、口呼吸で、しっとり湿った熱くて濃度の強い息を、吐きだしては、ぱくぱくと魚の口のように空気を取り込むシュン。わたしのことをじっと見上げて、理解不能な状況、って視線だけでも語っちゃってるシュン。ときおりなにかのつらさにうめいては、目をつむって、でももういちど開けてわたしを見てくる……。
……高校時代のわたしだったら気持ち悪いとか必死すぎるとか哀れだとか言って、笑ってた。
……だから。だから、だからね。
わたしは、シュンのその横に、……いっしょに川の字つくるみたいに、ごろんって、横になった。
犬らしく。あえて、犬らしく。――わんこにとってだいじなおなかも、あなたのほうにもう向けてるよ。ねえ、犬はね、服従のポーズとしておなかを見せるの。わたしもね、わたしもね、……そういうの調教施設で訓練、されたから。
でも、でもね、このおなかは……人間のときのまま、つるつるなの、……自慢だった美白肌なんてこうなっちゃえばね、わたしこそ哀れでしかない、人間の肌の部分がいまもちゃんと色白で、キレイな人間のお肌の色してるのなんて、……もう哀れも惨めも通り越して滑稽でしかないんだよ……。
それでも、わたしは、……あなたに剥き出しのおなかを向けているから。
前足もちゃんとちょこんと胸の上でかわいくまるめて、――調教施設でかわいくしろって毎日毎日怒鳴られてぶたれて電流を流されてやっと、やっとのことで仕込まれたこの動きも、おまけでつけて、
あなたにこんなポーズ晒してるの――犬みたい、犬みたいだよね。笑っていいよ。ねえ、シュン。
わたしはちろりとおどけてベロを出すポーズまでしてあげた、ああ、……つらい。
「もっかい、言うよ。わたしのこと、よく、見て?
ね? ――わたし、もう人間じゃないでしょう? ね?
シュンは人間のままだけど……わたしは、わたしはね……」
泣いちゃだめ、だめなのよわたし、――シュンがこんなに弱々しいんでしょう。
せめて、わたしだけは。ううん、ううん、せめていまだけは――
「……わたしは犬になったのよ。ほら。このふさふさの前足……これ、三角の耳なの……あとね、あとね、尻尾も、あるから……けっこうかわいい尻尾なんだから。くるん、って丸まってるのよ、わたし……柴犬、だから……」
そう。わたしはね――柴犬なのよ。
柴犬モデルの、人犬なのよ。――そうされたのよ。無理やりね……。
ねえ、シュン。シュンはさ、わたしのこと、人間だって、言ってくれたけど……わたしは、わたしは――人間だったのに柴犬なんだ。ああ。……へんなの、おかしいね……。
だいじょうぶだよ、ってさっきわたしが繰り返していたこと、……きっとその続きはもしかしたら、
「わたしはもう、手も足も、出ないわ。……だから安心して。ね――お願いよ、シュン」
わたしのほうが、あなたより、
……いま、ずっと悲惨なの、だからだいじょうぶなのよ、って、ああそっか――そういうことだったのかもしれない、な。
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