プリーズ、ネコ
ドアが完全に閉まって、ガチャリと音がする。ご丁寧に鍵までかけてくれたようだ。
ちょこんとおすわりの格好でドアノブを見上げた南美川さんは、その音に耳をピクリとさせた。そしてすぐにこっちを振り向く。その表情はさきほどまでの気丈さと打って変わって、いますぐにでも泣き出しそうだ。
と、思ったらすぐに――南美川さんはこちらに四つ足で駆けてきた。まるで弾丸のように。ころころと駆けてくるっていう、そんな感じ、……そんなこと言ったら南美川さんには怒られてしまうかもしれないけれど。
人間のおとなだったらそうとう身体をかがめないと通ってこられないであろうダイニングテーブルの下も、猪突猛進と言わんばかりに飛び込んできて、あっというまに僕のすぐそばまで来て、テーブルの下からちょこんと僕の両膝にその両方の犬の前足を、乗せた。
見上げてくる。至近距離で。それはいつものようで。甘えるようでいて、どこかしら強そうで。
「シュン……」
……その顔はふだんよりもずっと強くなにかを訴えかけていて、やっと南美川さんは素直に哀しそうだった、けど。
でも。……いまは。
「南美川さん。お願いがある。……いまから次に僕がいいよって言うまで、ひとこともしゃべらないで。声もなるべく出してほしくないけど、とにかく意味のある言葉だけはぜったいに駄目だ。……いいね?」
「え? なんで……?」
「なんでもだ。いまはしゃべっちゃいけない。ぜったいに。……時間はたぶん、そんなにない。
リードで言えば南美川さんの首の後ろをかなり強めにぐいっと引くやつ。僕はいま手が動かせないからそうできないけど、あれが発動されたと思ってほしい」
それは――とにかくいまは黙って、のシグナル。……緊急性も強制力も高めに設定してあった、シグナル。
南美川さんはどことなく納得できない顔で、でも、理解をしてくれたのだろう、ぎゅっとなにかを不満そうに呑み込んでこくりとうなずいてくれた。ばさり、と尻尾が半円を描くようにして大きく、振られた。
もし手が動くのであれば、南美川さんの耳と耳のあいだにそっと手を置きたかった。……いい子だ。
しかしそういうのはぜんぶ帰ってから、……帰れたら、やったほうがいい。
ともかく時間はない。チャンスだっていちどきりだ。僕もそもそもはじめてやることである。保険、ね、――ほんとうに効くことになるだなんて、ほんとうに南美川さんの実家は物騒だよ、……挨拶だって兼ねてたのにさ。
それにね。
僕はあしたも会社に行かなくちゃなんないんだよ。悪いね、峰岸くん――同窓会は早いところおひらきにしよう。
天井を、見る。身体が火照っている。きっといまの僕は、酒臭い。
拘束された両手は胸を張って天井を見つめるにはなかなかに適した体勢なんだな、って思った。
息を、吐いた、――さあいつも通りにはじめようか、
僕は天井を見たまま言う、ゆっくり、あくまでもゆっくりと噛み締めるようにして、
「……Please,Neco」
――Necoシステムを、起動した。
さきほども南美川真が使用していた"
ウェキャップコマンドは、あくまでも家庭用のNecoに対していろんな用事をお願いするための、つまりは家庭用Necoの起動スイッチでしかない。家庭用Neco、通称
旧時代でも、コンピューターというのはそもそも計算をするためのものだったわけで、だから家庭用や個人用となってコンピューターは、パーソナルコンピューター、つまりパソコンと呼ばれるようになった。けっきょくNecoシステムもおなじ道をたどりつつあるのだ。最初は社会の適切な運営という名目でつくられたNecoシステムは、汎用性を拡張されて、こうやって各家庭におさまっているというわけだ。それこそ、家にどっしりとかまえてニャアと鳴く家猫のごとく。
僕が会社でやっているようなNecoシステムは、家庭用ではなくてオフィシャルのひろいネットワークのものであって、プログラマーの業界用語ではノラネコという。ちょっと信じられないことだが、旧世代では動物としての猫が町をうろついていることもあって、そういう猫を野良猫と呼んでいたらしい。
Necoシステムもじっさいどこでも応用できるし、情報共有は前提だ。だから僕だってあの日、先走ってNecoシステムにエモーショナルコマンドという禁じ手を命令してしまったら、すぐにその情報が社内をかけめぐった。ほんらいなら会社どころか国家機関にも上昇して報告されるはずだったものを、だから、つまり、橘さんや杉田先輩が、協力してくれて必死で止めてくれたのだ……。
家ネコは、ノラネコと決定的に違うところがある。
家ネコは――プライベートな情報は、原則として外には漏らさない。そういう仕様に、なっている。それは、そうだ。だってプライベートな家族写真とか、あとは僕の姉と妹みたいにシャンプーとリンスの位置がとかなんとか、そんな情報はわざわざ収集しなくてもいいし、そもそもそれというのはプライバシーなのだし――人権をもつ以上は、プライバシーは尊重されるのだし。
だが、だが、――だが。
そういう、ことなのだ。
原則としてだし、尊重をされる。――だが必要があれば開示される。
……知らなかっただろう。知らなかったと、思うんだ、とくに峰岸くんなんか、仕事の話になったときの話しぶりからすると――僕が、Necoシステムとは、文字通りに対話をできるんだってこと。
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