ひとりの無性愛者の苦悩

 ――アセクシャル、あるいはエイセクシャル。

 すくなくとも、僕は知らない。


「すみません。知りません」

「や。謝ることではないよ。知らなくても仕方はないねえ。現代ではちょっとガラパゴス化してしまった分野だ。本当は社会的にもっと広く問われるべきだったものが、いつの間にやらどうしてか、当事者のうちでの身内論議と化しているし」


 ふう、とネネさんは煙を吹き出す。


「アセクシャル、あるいはエイセクシャルというのは、無性愛。……ま、つまり、恋愛感情がもてない性質のことだ」

「……あ。それって、もしかして」


 南美川さんが尻尾をぱたんと揺らした。

 ネネさんは、どうぞ、と促すようかのように手のひらを滑らせる。


「……あ、の。……わたしの知識、ずっと前の、教科書止まり……ですけど。……高柱研究所の始まりは、あの、高柱猫なんですよね?」


 高柱猫。

 いまの社会の、基本をつくった学者。


「うん。猫さんね。合ってるよ。それで?」

「――高柱猫、は、……性別を間違って生まれてきた、って聞きました。その……当時で言うと、障害ってされてて」

「ああ、その通りだな。いまでは性自認の身体性別との不一致というのは、早く見つかれば見つかるほどより簡単に、まあそうでなくても少しがんばってコストをかければ細胞操作で一致させることができる。夢の細胞があれば身体的性別を変えるだなんて容易いこと」


 あ、と気づきの形に南美川さんは口を開けた。

 夢の細胞――まさしく、僕たちが一昨日、話してきたもの。


「だが猫さんはその夢の恩恵を自分では受けられなかったのだよ。あの時代はまだまだ人間の身体をいじる技術がここまで発達していなかった――せいぜいが外科手術で性特徴的な外見を調整することが、限界だった。……それだって当時としてはたいそう大きな役目を担ってたんだがね。猫さんは苦しかったろうよ」

「……無性愛も、関係あるんですか?」


 南美川さんは尋ねる。

 説明しようか、とネネさんは言った。


「性自認の問題と、無性愛、そして両性愛だとか同性愛だとか異性愛だとかのような性質は、また別問題だということだね。併発することはしばしばあるとされているけれど、統計的に有意な関連性は見つかっていないからね。たとえば、私は高柱寧寧々という女として生まれて、女として生きてきた。その性自認にぶれはないし、そこを疑ったり違和感を感じたこともない。つまりして、私はナチュラルジェンダーにおいて女だったのだよ。だが、それと同時に私は無性愛者だ」


 ひときわ大きな煙で、視界が白く煙る。


「少し長くなるがな、私の身の上話を聞いてくれ。……人を愛せないこと。恋できないこと。性欲があるない以前に、まず、特定のだれかを、恋愛といった意味で特別に愛しく思えないこと。私はずっとそんな世界で生きてきたよ。友だちはほしいし、ひとりぼっちも嫌だ。だけど、だれかと生きるのにあたって、恋愛感情をもちえないというのはこれで案外、大きな枷だったんだ。そしていま私は独りで生きている」


 煙が、すこしずつ、……散っていって。


「……原因は、はっきりしている。私はな、よく、男っぽいと言われるんだよ。私はたしかに、産まれつき、……かなりわりと男っぽいのだよな。男になりたいと憧れたことはさきほども言った通りないよ。かといって女でよかった、でもないし。例の高柱の猫さん。彼は――身体が、たいそう小柄な女性だったんだ。……写真とかは一般には公開されないけどね、私はなんどか、見たことがある――きっとびっくりするよ、アレ。猫さんはぱっと見ではたいそう可愛らしい、女性でしかなかった。彼は、ある時期から、日常生活の周囲を女性で固めた。すくなくとも身体が女性である人間ばかりで固めた。それは、彼自身がまず、異性愛者――つまり性自認的に言うと、女性に恋愛感情をもっていたことと、身体的に男性な同性は、トラウマを刺激され苛々してしまって、身近に置きたくなかったんだそうだ」


 燃える煙草の先に気づいていないかのように、どこか虚空を見ているネネさん。

 大股開きで座っているその合間の床に、……灰が、どんどん落ちていって。


「猫さんはほんとうにたいそう同性を――つまり男性を嫌った。それでも、猫さん自身は、頭のよくて根本的にはクールなひとだったからね。性別で待遇や採用を決めたりはしなかった――すくなくとも研究分野においてはね。プライベートは女性で固めたけど。……研究にかんしては、男性だからといって追い返しはしなかった。気持ち悪い、気持ち悪いとは文句を言ってたらしいけど……。けど。……高柱家に残された呪いのひとつだろうね。猫さんが身体は女性だったから――愚かにも、意味などほとんどないのに、性別を女性にデザインされて産まれてくることが、ある種当然となってきていた。ほら、べつに何人かいれば、女の子でも男の子でも、いいんだ。それは、パターンだから。だが――少ない人数の子どもで、勝負をかけたい、……そんなときには女の子を発生させるのが、……私の親の代の高柱で、とくに、熱狂的なブームとなってね。私も、そうされた。……寧寧々、なんて名前でみんなわかるだろう。私の両親は、私に、優秀な高柱の学者になってほしかったんだ――そんな高柱の親は当時いくらでもいた。猫さんから名前をあやかるひともたくさんいた。みな、なるべく被らないようにしたよ。いちおうみな血縁だからね。ほかにだれもつけられていない、みそっかすみたいな残りの名前で――私は、猫さんの、ね、をとって、ねねね、と――なったんだよ。……だから私はあんまり寧寧々さんとは呼んでほしくないんだよなあ」


 ネネさんは、蛍光灯をぼんやりと見上げた。


「……私はナチュラルにいけば男性だったのだそうだ。それを、かなり初期に、デザインを施して――女性の染色体として、私は発生した。わりとよくありがちな、性自認の後遺症も、私にはなかった。文化ジェンダー的に、髪が長いのもスカートをはくのも疑問ではなかった」


 だがね、とネネさんはつぶやく。


「私の後遺症は、しいて言うなればね、その恋愛性質――無性愛ということに、現れたのだろう。……ひとを、愛せないこと。――愛してくれた大好きな相手を愛せないことだけは私はとってもつらかった」


 ポタリ、と。

 ……熟れすぎた果実のように、煙草の先端がほとんど半分、ベージュ色の床に、落ちる。

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