ネネさん

「おい。終わったぞ」


 その言葉が僕に向けられたものだとは気づかずに。

 ちょうど、しゃがみ込んで下段の本の背表紙をまじまじと見つめていたところだった。


「おい、おい。終わったぞ!」


 やけに声が近づいたので、しゃがんだまま振り向いてみる――そこには、仁王立ちをしている高柱寧寧々がいた。

 ありがとうございますともすみませんとも言いがたく、僕は曖昧な態度のまま立ち上がり――ソファの上にちょこんとおすわりしている南美川さんを、見た。



 僕は思わず、あ、というかたちに口を開いてしまった。



 ……あ。

 高校時代の、顔をしている。


 表情ではなく、顔が――当時のギャルらしく華やかな顔に、なっている。



 そっか。……そっか。

 化粧をすると――こんなにも、あのときの南美川さんの顔に、なるんだね。



 まじまじと南美川さんの顔を見ていると、南美川さんは、恥ずかしそうに顔をそむけた。

 僕と南美川さんのあいだには、なんとも言えない微妙な空気が流れていたのだけれど――。



「おいおいおい。なにを見つめあっているのんだ。アンタたちがアツアツカップルなのは見当つくけど、ネネさんを仲間外れにしないでくれ。ネネさんはそういう恋愛みたいなことはできないから妙に遠慮しちゃうんだよ」


 ……いや、あの。僕の肩をぐいぐいと押して南美川さんの隣にぽすんと収めるように座らせるだけで、あの、その、……ぜんぜん遠慮してなく、ないですか?


 とは……さすがに、言えなかったので。僕は曖昧に笑おうとして、でもなんかうまくいかなくて、結果的に頭を下げた。


 どすりと、生物学者はソファに座る。


「さて。クルミくんだっけ」

「来栖です」


 ……クルミ、と間違えられたのは初めてだった。


「おお。ごめん。クルスね。苗字は?」

「え? ……え。あの。来栖、ですけど……」

「んっ? クルス・クルスっていうの? ふーん、珍しい……」

「……えっと。その。僕の名前は、来栖春です」


 なんだろう、その名前間違い。

 相対的に上位な学者ほど変人が多いだなんて巷の噂、ほんとかなあと思っていたけど――なんかもう既に、そうかもって、思い始めている。


「エット・ソノ・ボクノナマエハくん――ああ、いや、いいや。そろそろなんとなくわかってきたから、アンタのパーソナリティ。くるす……しゅん。ふむ。漢字はこれで合ってる?」


 生物学者はサラサラと小さなメモ用紙にペンを走らすと、それを見せてきた。

 ……正解だ。ちゃんと、来栖春、と僕の名前が漢字で書いてある。


「え。なんでわかったんですか。僕の名前を、その――」

「いやだって事前に知ってたし。聞いてたし。来栖春くんのお友だちくんの、すぎちゃんのぴょんぴょんから」


 ……真顔で、話している。

 すぎちゃんのぴょんぴょん、とかいうのは杉田先輩のことだろうか……。


「じゃあ――なんで、僕の名前を間違えたふりをしたんですか?」

「簡単なこと」


 変人生物学者は、……にやり、と顔の角度を奇妙に傾けて、笑った。

 どこか妖怪じみていて――でもそれが奇妙に、美術品のようにキレイだった。


「こんなトコのこんな私なんかに向かっても、自分の名前のトンデモ間違いを訂正できるかどうか、テスト、チェックするためだよね――はい、そういうワケでこちらも名前くらいは名乗ってあげる。高柱寧寧々。ヘンな名前でしょう? ネネさん、と呼んでくれるかな。どうせだれもネネネ先生なんて呼ばない、舌を噛んでしまうだろう」

「……いえ、いきなり、そんな」

「そもそも寧寧々という名前はねほら高猫に、ね、というひらがなが入っているだろう、だから、ね、がつく名前をつけるのが高柱の一族のあいだでは伝統的にブランド的に意識されていてな、しかしそんなの上の世代のエゴであってまったくもって利便性を軽視した名前だと思うからアンタらみたいな初対面にも特別愛称ふつうに許しているわけですさ」

「……それじゃあ、ネネさんって、呼ばせてもらいます」


 頑張って、そう呼ぼう……。


「こっちが自己紹介をしたんだ。そっちも、頼むよ」

「え、っと。あらためまして。来栖春です。それと、こっちは……南美川さん。自分で、言える?」

「……南美川、幸奈、です」

「ふうん。よろしくね」


 南美川さんが人犬であることには――とくに、突っ込まないのだろうか。



「煙草、失礼」


 高柱寧寧々……ネネさんは、ソファに大股開きで座ったまま、煙草を吸いだした。


 なんとなく、絶妙に、気まずい僕たち。

 ネネさんはそんな僕たちを、まるで眩しいものでも見るかのように目を細めて見つめる。


「……それでさ。あんたたちは、恋人的恋愛カップル?」


 僕も南美川さんも、すぐには言葉が出てこなかった。


「……なんだ。もしかして。恋人どうしってわけじゃないのかな? 顔をきれいにすれば喜んでくれるかなーって思ったんだけど」

「……その。僕と、彼女は。高校の同級生です。それ以上でも、以下でもなく……」


 言葉が、どんどん自信を失ってしぼんでいく。


 ふうん、と言いながら、生物学者は煙を吐き出す。妙につまらなそうに。


「……まあ、なんでウチに来たかは、聞いたよ。その人犬を、……人間の身体に戻したいんだろう。必要な情報や技術の提供ならできるかもしれない――」

「え、ほんとですか、」

「話を遮るんじゃないよ。最後まで聞きなさい。人間の体に戻すには、三つの条件があるんだよ。ひとつは私の研究にかかわる条件、あとのふたつは、実際に人間の体に戻すことを実現可能にする条件」


 三つの、……条件。


「まず。私の研究分野の話からいこうか。アセクシャル、あるいはエイセクシャル。無性愛ともいうのだけど、……おふたりさんのどちらかでも、聞いたことは、おありかな?」

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