生物学者の研究室で
高柱寧寧々の研究室。
ゆったりと広すぎるほどに広く、壁にはびっしりと書籍でギチギチの本棚が並び、ホワイトボードには数式や外国語や締め切りなどメモらしきものがぐちゃぐちゃと書かれ、部屋の手前と奥に二か所に応接セットがある。
手前の応接セット皮張りのソファに僕たちは案内された。僕たち、というか――主語は南美川さんのほうかもしれない。……南美川さんは二人掛けのソファに座らされ、高柱寧寧々もその隣に。僕はといえば、その向かいのひとり用のソファに座って、その様子を眺めているだけだ――お化粧のようすを。
部屋の
僕はとくにすることがない。話しかけようとして、あの、と言っただけで、ちょっといまは待て、と怒られてしまう。なので、ソファの隣に座って見ているだけだ。
南美川さんは、高柱寧寧々の手が目にふれると、いたっ、と言って目を閉じたりする。そのたび高柱寧寧々は「おお、ごめんごめん」と、軽い調子で、でも、ちゃんと、――ひとに対するみたいに謝っていた。
なるほど――そういうひとなのだ。きっと、南美川さんのことが、……人間に見えるひとなのだ。あるいは――僕も南美川さんも、さっきこのひとが話しかけていた黒猫とおなじに見えてるだけ、って可能性もあるけど……。
なんどもなんども南美川さんが痛いと声を上げたので、僕は最初は心配して見ていた。が、なんてことはない、高柱寧寧々は単に不器用なようだった。なんどもなんども、女性にしては無骨で大きめのその手で、南美川さんの顔にふれてしまう。
まあ、でも、不器用なだけということならと、僕はそういう意味では安心して見ていた。
南美川さんの顔に、いろんなものが塗られていく。
ただ、液体や粉を塗っていくだけなのに、――なるほどたしかに変わってくる。
そう、あのときの――高校時代の南美川さんに、すこしずつ、すこしずつ、近づいていく。
「ちょっと、見られているとやりにくいな」
「え? いま僕に対して言いました?」
「ほかにだれがいるというんだ。人間、人犬、人間。ここにいるのは、はい以上」
人間、人犬、人間、と言いながら、指さしをした。自分自身、南美川さん、僕。
その間もこちらを見もしない。南美川さんの顔にぱふぱふと粉を塗りたくっていた。ファンデーション……と、いうやつかな、あれが。
こう、女性がお化粧で使うとかいう……さっきも肌色の液体を塗ってたけど、液体のうえにさらに粉を乗せる、ってことだよな。うーん、なるほど、……あれはそうやって使うものなのか。
「ねえ。ほんとにやりにくいから、ちょっとそのへんぶらついてて」
「え、でも僕は、振興地下街のことなにも――」
「だれが研究所の外に出ろよって言ったよ。アンタに歩ける街じゃないでしょ」
「あ、じゃあ、ほかのお部屋に――」
「研究室を出るという意味ではないんだな。いまひとりで外を歩かれるなんて、ぞっとしない。ほら。んっ」
おちょぼ口をさらにすぼめて、こんどは僕を見る。
んっ、と言いながら、片手を大きく頭の後ろで回す。
「……え、あの」
「この研究室限定でぶらついてろってこと! 外には出るな、ただしじっと見てるな。そういうこと。アンダスタン?」
「……はい。あの。すみません」
高柱寧寧々は髪をふりかざして僕を睨むようにして見ると、南美川さんのお化粧に戻った。
南美川さんが、だいじょうぶ? と問いかけるかのようにして僕を見てくるので、苦笑いして、返しておく。
さて。それであれば仕方ない――僕は立ち上がる。……南美川さんもだいじょうぶだろう、かえって僕のことを心配してくれているほどだから。
せっかくなので、生物学者、高柱寧寧々の研究室を見学させていただくことにした。
本棚にギチギチに詰め込まれた本の背表紙を、眺めていく。
僕も、プログラミングの書籍であればそれなりに所有してはいる。コード辞典やほんとうにごく基礎的な入門書はデータで入れているけれど、そうではないものは、書籍のほうが入手しやすい。
大学の、デジタル史の授業で知った。
現代では、いわゆる従来の紙書籍派と、電子端末でアクセスできるデータ派とに、区分されてはいる。
旧時代、電子書籍という名称があった時代では、まだ紙書籍とデータの役割は混合していて混乱していたらしい――やがて時代を経るにつれ、考えかたたじょじょに変わっていったのだという。書籍はその物質部分も含める。そうではない電子のファイルは、書籍と考えるのではなく、アクセス可能な情報と捉えるひとが、多くなってきた。
辞書や百科事典的な情報がまず、書籍ではなくファイルデータが一般的となっていった。次に、小説や漫画などの物語的なもの。
書籍やデータファイルについては、おおむね成功が続いているらしかった。価値の出し入れのシステムが、うまいこと、構築されたのだという。
本を、物質的なところと情報的なところに腑分けして考えて、そのうえで、それらの情報のアクセス権に着目したのがよかった――どうも、それが世間でも定説のようだ。
そして、多くの人々が見るような情報や物語に関してデータが中心となった、ということは。
裏を返して言えば――専門性が高い情報やある種の物語こそ、……書籍で提供される、ということである。
実際に社会生活をしていても思うのは、たいていみな、自分の専門の分野に限っては書籍を多く所有しているようだということ――僕みたいな学生に毛が生えたようなプログラマーでも、背の高い本棚がひとつぶんゆるく埋まる程度には関連書籍を所有しているのだから。
たとえば橘さんや杉田先輩のようなもっと社会経験の長いひとだったら、なおさらなのだろう。橘さんは法律関連の書籍を持っているはずだし、杉田先輩も、営業、――そしてむかしプログラム屋でもあったなら、僕とおなじ書籍ももしかしたら持っているのかもしれない。
そして。
高柱寧寧々は、まずこんな広い部屋の四面の壁ほとんどすべてに、ここまでビッチリと書籍を並べている。
それはつまり、並の社会人の比ではない知識量と専門性を意味する――油断は、できない、相手だ。まったくもってして……。
……ジャンルは、僕には、ほとんどわからなかった。
でもなんとなく、わかるのは……細胞学と、あとはいわゆるジェンダー学についての本が多い、ということだ。
それと――やたらと多いのが、アセクシャル、というワードだった
南美川さんなら――意味が、わかるのだろうか。
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