第五章 高校の同級生を、ちゃんと、もとに戻したい。その一心で、専門家の先生の研究室を、ふたりで訪れます。

高柱寧寧々

 その生物学者は、窓際で煙草をふかしていた。



 よれよれで黄ばみだらけの白衣と、しわくちゃの紺のズボン。とりわけ目立つのが、腰まであるバサバサの黒髪。

 女性にしては長身ということもあり、受付で事前に女性と聞いていなかったら、男性だと思ったかもしれない。……僕だって男だけど女の子みたいな髪型をしているのだし。



 あれが――高柱たかはしら寧寧々ねねね



 四つ足の南美川さんが、どうする? と問うような顔で僕を見上げていた。

 僕はうなずくと同時に、南美川さんの首輪につながるリードをわずかに右上方向に曳いた。

 待って、ってシグナル。――つまりちょっと様子見だ、って意思を伝えた。


 ……じつは、これも、事前に作戦会議とか茶化した呼びかたで、でも真面目に真剣に、話し合って、決めておいた。

 きょうは、南美川さんとどこまで言葉でコミュニケーションが可能かは、わからない。

 だから――リードの動きで、お互いにある程度意思を疎通できるようにしておこうと。……リードのシグナルだ。

 僕が右手で動かすだけではなくて、南美川さんが首を動かしてくれても、その方向で僕にシグナルとしての意味は伝わるようになっている。


 ……僕は、ともかく。首輪の感触で意思疎通をしなければいけない南美川さんは、……きっと、そんなのは、ほんとうは嫌だろう。

 人間はほんらい首輪などつけられるべきではないし、その動きで意思を伝えるなんて、……ほんとうに、犬だ。


 けども、南美川さんは快諾してくれた。南美川さんは――やはり、とても、……いい子なのだ。

 尊敬できる――ひとなのだ。



 薄暗い、高柱第二研究所の廊下。どこか旧式の病院施設のような雰囲気。

 生物学者は、スマホをいじるわけでもなく、ただひとりで煙草をふかして窓の外を見つめている。

 ここは地下だから、空は見えない。

 けど、たしかにそこに景色はあった。と、いっても、路地裏が見えるだけだ。

 僕は振興地下街なんてはじめて来たけど、ここは単なる地下というよりは地下の空洞に広がるひとつの街であるらしいのだ。けっこうでかくて、……迷いかけてほんとうに焦った。

 そして、杉田先輩の言っていた通り、……ほんとうにあまりクリーンな場所ではない。


 生物学者はふう、と窓に向かって煙を吐いた。

 そしてふとなにかに気づくと、黒髪を揺らして飛びつくように窓を開け、チョッチョッと舌を鳴らしながら高速で手招きをはじめる。

 猫でも呼びつけるみたいに――と思ったら、マジで、言い出したのだ。



「おお、黒猫ちゃん。にゃーん、にゃんにゃん。にゃんちゃん? おいで。怖くないから。おっ、……とっと、逃げるか、逃げますか。あっ。行っちゃった。なんと……はー、さみしい……」



 声はどちらかというと低く、すこしだけしゃがれていて、ハスキーだった。言っている内容がやたらとかわいかった。

 高柱寧寧々はおおげさと思えるくらいに肩を落とすと、窓を閉めて煙草を灰皿で消す。

 ……この研究所では、喫煙はデフォルトなのだろう。喫煙免許にはかなりの社会評価ポイントが必要だ。当たり前のように廊下という公共的な場所に灰皿を置けるなんて。よっぽど――社会評価が高い場所のはずだ。……おそろしい。


 そして、くるりと方向転換した。

 そこではじめて高柱寧寧々は僕と南美川さんの存在に気がついたようだった。


 目が、合う。

 すこし面長で、眉も目元もキリリとしていて、口はおちょぼ口。

 知性と経験がありそうなおとなの女性だ、と顔を見ただけで思った。おそらく、じっさいにだいぶ年上なのだろう。僕や南美川さんと、ひと回りは違いそうだ。



 僕は、とりあえず、ぺこりと頭を下げた。



 高柱寧寧々は、口をあんぐりと開けて僕たちを見つめていた。

 しまった、――そこまで、猫と会話をしようとしていたことを見られたのが、ショックだったか。


 高柱寧寧々は、口をいちど閉じ、今度は言葉のかたちに開いた。



「お化粧もさせてないのか?」

「え? お化粧、ですか……?」

「来なさいキミたち」

「えっ、えっ、なにがですか……?」



 わけのわからない僕と、おそらく僕とおなじ気持ちであろう南美川さんは、

 ……僕の服の袖を引っ張られるというかたちで、つまり南美川さんのリードもいっしょくたに、高柱寧寧々の研究室に連行されたのであった。

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