深刻な話を切り出そうとしてみたら、

 夕食のあと、僕は眼鏡をまだかけていない南美川さんに、このタイミングで切り出すことにした。

 きょうは金曜日。これから週末。……日曜日というのは、明後日のことだ。


 南美川さんは僕の膝に前足だけを乗せて、寝そべるように伏せの格好をしている。

 おなかいっぱいのようで、尻尾の動きも表情もリラックスしている。……このごろ、やっと、僕とおなじ食事ができるようになってくれた。まだ量は少ないけども、ハンバーグとか焼き魚とかをおいしそうに頬張る南美川さんを見ていると、……僕はなんともむずがゆく嬉しくなる。


 最初のほうこそ、僕は食事さえもまともに食べられない南美川さんの口に、スプーンで食物をねじ込んでいた。それこそ赤ちゃんにそうするみたいに。南美川さんはいやいやと拒否しようとしたけど、……食べて、と僕がお願いして、なんどもなんどもその口に人間のごはんを押し込んでいった。

 けれど、このごろは、自分でがんばって食べてくれるようになったのだ。……もちろん、食器は扱えないから、お皿に入れて犬食いだけど。

 ハンバーグとか焼き魚とかのおかず。噛み切れなくて困ってしまっていたり、そのままくわえてしまってどうしたらいいのかわからなそうに困惑しているときとかは、僕も少し手伝ったりはする。……でも、基本的には、四つん這いの犬食いであったとしても、自力で食べてもらうようにしている。――自力でやろうとするというのはひとつの人間性だ。

 ……僕だって、あの十八歳から二十歳までの引きこもりの時期は、人間性を失っていたと言えるのだから。両親の手助けで生きていた僕は、あきらかに、人間には足らなかった。南美川さんよりもずっと、ずっとだったろう――だから僕は、人犬加工をされて、這いつくばって口だけしか使えなくて、それでも、自分で食事をしてくれようとするこのひとを――尊敬する。


 お互いたぶん、生活にもだんだんと、慣れてきた、……そんな食後のくつろぎタイムで。

 僕はまた――このひとに、話を切り出さねばならないのだ。……新しい話を、またしても。



「……シュン、眼鏡は? わたし、お仕事したい」

「うん。もちろん、かけさせてあげるよ。でもその前に――ちょっと、僕の話を聴いてくれるかな」


 なに? という顔をして、南美川さんは僕を見上げている。


「南美川さんは……お仕事を、はじめたね」

「うん。……中流工程だし、まだ一円もお金にはなってないけど……」

「けど、あなたには、……あなたのやることができただろ。それってとても――人間らしいな、って思う」


 言葉を、選ぶ。

 選びすぎて遠回りな表現に、なってしまっても。


「……南美川さん、さ。僕と再会したあと、わたしを飼ってくれるの? って言ったこと、覚えてる?人間らしく生活させてくれるの? って――」

「……うん。覚えてるわ。もちろん。……わたしはもう一生、人間には戻れないと思っていたから」

「うん。だよね、南美川さんはいつもそう言うよね。……僕は、あなたを、できるかぎり人間らしくしているつもりだ。……すくなくとも人間として扱っているつもりだ。その、でも……さ」


 南美川さんの、耳と、尻尾と、足のふさふさの毛。

 ……人間には、ないもの。

 そう、そうなのだ、人間には、ないもの。


 犬と思うには、南美川さんはあまりに人だ。

 けれども、人と思うには、……南美川さんはあまりにも犬であるのだ。


 僕はかえって、……南美川さんが眼鏡をかける時間を手に入れて、

 ああひとりじゃないんだって、孤独が和らぐくらいに、はじめて、だれかとふたり組になれた気がしていて、

 だから南美川さんと再会してからかつていちばん強く――南美川さんの犬の部分が、……気になりはじめていた。


「……南美川さん。もしかしたら、僕はひどいことをあなたにいまから尋ねようとしているのかもしれない。……もし、嫌だったら、嫌だって言ってほしい」

「嫌だって言ったら、やめてくれるの?」

「わからない。ごめん。そうだよね。僕はそういう性格の悪いところがある、酷い人間だ。だから嫌だって言ってほしいだなんて、僕のための逃げ口上だってわかってるんだ――でも、でも――ごめん。南美川さん。訊いても、いい?」

「……そこまで言うなら、聞かないわけにもいかないわよね」


 南美川さんは――ある種の自信さえも浮かべて、ニイッとしたその笑顔で、僕を見ていた。

 ああ、……南美川さん。あなたはほんとに、人間で――。



「……あなたは、手足が切り落とされたことについては、どう思ってる?」



 南美川さんは、きょとんとしていた。

 僕はおでこに手を当てて、膝の上に南美川さんがいることをすごくとても意識しながら、

 ……その体温を感じながら、

 そのまま、背中を折るようにして大きく、うつむいた。

 ……ぎゅっと目をつむったから、視界だけは、暗くなってくれる。


 ――ああ、ついに言ってしまった、と。


 せめて、せめて。

 涙声になどけっしてならないように、と――



「僕は、あなたを人間扱いすることなら、できる。あなたの寝床を確保して、ごはんをあげて、おしゃべりをする。……仕事だって、やりようによっては、できるだろう。僕が手伝うのならば……。そう、僕が手伝うのならばっていう条件つきなんだよ南美川さん。あなたは――あなたは、人間なのに、……僕なんかの助けがずっといるってことなんだ。それは、それは――しんどいと思うんだよ。……お互いにさ」



 ……ごめん。ほんとは、僕はほんとのところはじつはけっこう、つらかったのかもしれなくて、しかもそれを、――あなたにぶつけようとしているのかも、しれなくて。


 でも。……でも。



「……あなたを飼ってあげると言ったのは僕だ。人間扱いする、っていうのも。……でも、でもね。人間扱いをしないと、南美川さんは、人間じゃないんだよね――」



 南美川さんの返事は返ってこない。

 おそるおそる、僕は顔を上げた。



 微笑んでもない。泣いてもいない。

 嬉しそうでも、つらそうでもなく。

 予想外の表情をしていた――南美川さんは、なにかをわずか訝るような顔をしていた。



「……あの。ごめんなさい。シュンの話の本題が、そこではないのは、わかるのだけど」

「なに? なにかがあるなら、なんでも言って……」

「――わたしは、手足を切り落とされては、いないわよ? 細胞を――いじられただけだから」



 僕は、まじまじと、

 泣いてもなく、つらそうでもなく、

 ただそこで難しい顔をしている南美川さんを、見つめた。



「え?」



 ……え?

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